「読売新聞」の談話について

「読売新聞」の談話について


6月14日付の「読売新聞」で、「血液型 もはや『個性』」という記事が出ている。「B型自分の説明書」という自費出版の本が50万部売れたことをうけて、「どうしてだろう」と問う内容だ。

 

そうした記事につきものの「識者の談話」で、光栄にも筆者(草野直樹)が出ている。

 

この記事を書いた記者はまず、「B型自分の説明書」があまりにもシロウト的な作り方であるにもかかわらず、体裁も中身もしっかりしたプロが作る本を、桁違いに上回る売り上げを叩き出した理由を筆者に質問した。

 

筆者はそれに対して、こう回答したと記憶している。

 

「B型自分の説明書」がウケた理由のひとつは、まさに「素人的な作り方」そのものにあるのではないか。著者が印税契約で出版社から本を出す「企画出版」の場合、出版社側は売れるかどうかを基準に採用を決める。そして、営業の意向を採り入れた構成案やタイトルにすることもある。

 

この時点で、著者は「商業出版の現実」と自分の書きたいことの間に、大なり小なり齟齬を感じる。しかし、プロのライターはビジネスとしてその出版を実現しなければならないから、結局は出版社の意向を反映する形で原稿を作ることになる。

 

プロの方法論や視点でまとめるのではなく、シロウトに自由に気持ちよく作らせたことで、のびのびと表現できたのではないか。これは、厳冬の時代に突入している出版業界に対して、その突破口を示唆しているのかもしれない。

 

また、記事の中で、草野直樹はこう言ったとされている。

 

「以前の血液型性格判断は統計学などの科学を装っていたが、最近は先の見えない世相を背景に変わってきたという。『非科学的なものを信じる人が増え、生き方を見直す手段として読まれているようだ』」

 

たぶん筆者の話し方が不十分だったと思うのだが、筆者は「非科学的なものを信じる人が増え」たとは言っていない。ここで真意を書いておこう。

 

能見親子や鈴木芳正など、かつて「血液型と性格」の著書を書きまくって流行させた人たちは、「血液型性格判断」が「科学」であると宣伝し、またそこに期待する読者も少なくなかった。

 

だから、血液型性格判断に科学的な根拠はないことを、心理学者などが発言することが求められた。

 

ところが、「B型自分の説明書」もそうだが、最近の「血液型」著書は、とくに「新たな科学の真実」という構え方をしてはいない。科学的かどうかという提案は巧みに隠し、その著者の人生観、人間観等の表明の手段として「血液型」を使っている趣きである(もちろん、これだって非科学的ではあるのだが)。そして、読者と価値観を共有しましょうというスタンスである。読者はそこに共鳴しているのではないか。

 

つまり、昨今の血液型性格判断は、「(疑似)科学」としてではなく「価値」としての信頼感によって「信じる」人々の心に訴求しているということだ。

 

疑似科学批判陣営の中には、そうした流行の背景や価値観の根源といった問題を見ずに、「血液型性格判断は科学ではない」ことだけを声高に叫ぶ。それでは話は噛み合わず、血液型性格判断を「信じる」人々が得心することはないだろう。

 

血液型性格判断に限らず、オカルト・疑似科学の流行というのは、個々の科学知識不足だけの問題ではなく、そこにさまざまな要素が絡んでいるものだ。にもかかわらず、疑似科学批判陣営の一部は「知識不足」だけに着目してきた。

 

そうした自己満足な啓蒙活動は結局、「科学知識がない者が悪い」という一面的な結論しか導き出すことができず、大衆の苦悩や迷いがそれらに傾くことを阻止する有望な対策をいまだに見いだせていない。

 

オカルト・疑似科学の流行は、様々な面からその原因を語ることができるが、科学(だけ)の問題に「矮小化」してきた一部の科学者たちにも責任の一端があるのではないか。

 

「社会の中の疑似科学問題」は、「還元主義」では解は出ない「複雑系」である。

 

筆者は、記者にそう話したのだ。

 

「非科学的なものを信じる人が増え」たかどうかは筆者にはわからない。そのような統計も知らないし、調べたこともない。

 

ただ、昔も今も、人は「信じたいものを信じる」ことにかわりはない。だから、「それは非科学的だ」と紋切り型の糾弾をしても「信じる人」には響かない。そうではなく、「なぜ、それを信じたいのか」を探ることが問題解決には求められているのだと思う。


 
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