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『週刊ポスト増刊sepia昭和のライバル』(小学館)は、昭和を彩ったスターの、自他ともに認める「好敵手」との関係を特集

『週刊ポスト増刊sepia昭和のライバル』(小学館)は、昭和を彩ったスターの、自他ともに認める「好敵手」との関係を特集

『週刊ポスト増刊sepia昭和のライバル』(小学館)は、昭和を彩ったスターの、自他ともに認める「好敵手」との関係を特集しています。ライバルの存在が生み出す熱気とともに、今だから明かせる秘蔵エピソードなどを収録しています。

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昭和を彩ったスターの「好敵手」関係

『週刊ポスト増刊』というのは、テーマごとに週刊誌的なテイストで記事をまとめたムックです。

『週刊ポスト増刊sepia昭和のライバル』のほかには、『週刊ポスト増刊GOLD』と冠したムックも数冊市販されています。

いずれも、AmazonUnlimitedの読み放題リストに含まれています。

本書は、昭和を彩ったスターには、自他ともに認める「好敵手」関係について書かれた記事でまとめられています。

すでにネットで公開されているので「ネタバレ」にはならないと思いますので、具体的に誰について書かれているか、ご紹介します。

正直、「どこかで読んだエピソードだなあ」とおもったら、「本書は『週刊ポスト』で特集し大反響を呼んだ特集企画を加筆・修正し1冊にまとめたものです。」と断り書きがありました。

面白い企画なので、書籍(ムック)化したんでしょうね。

詳細は本書をご覧いただくとして、私が個人的に興味があったのは、やはりジャイアント馬場とアントニオ猪木の好敵手関係です。

渕正信が、「馬場さんは、猪木さんをタッグパートナーとして認めていた」という話や、藤波辰爾さんの「馬場さんと猪木さんはライバルなんて関係を超越した存在」といった話が書かれていますが、まあプロレスマニアならすでにご存知の話でしょう。

そこで、私なりに考えてみました。

ジャイアント馬場とアントニオ猪木の好敵手関係について。

BIというが全盛期が違うから直接比較はできない

ジャイアント馬場とアントニオ猪木。

どちらが勝つか、強いか、という議論は、未だにプロレス村では盛んです。

まあ、「どちらが勝つか」の答えは、どちらのリングで戦うかによるでしょう。

身もふたもない話ですが、興行というのはそういうものです。

では「どちらが強いか」というのはどうでしょうか。

そもそも、それは、あまりプロレスでは意味がないことなのですが、不穏試合が好きな日本のファンは、なぜか最高のショービジネスであるプロレスに、「真剣勝負」のフィルターを強引に通したがります。

でも、シューティングが強いという話では、よくよく聞いてみると、ケツの穴に指を入れたとか、耳をちぎったとか、そういうことをやって相手を倒すことが含まれるらしいのですが、そんな戦いで強いことに価値を与えるというのは、私には理解できないなあ。

それはともかくとして、一応、その議論が好きなマニアの土俵に入って答えますと、

アントニオ猪木はジャイアント馬場を超えられない。

ということだと思います。

「強い」とか、どっちが勝つかとかとは、少し違う話かもしれませんが、理由はこういうことです。

2人は、まず全盛期が違います。

ですから、直接比較は実はこんなんです。

デビューこそ同日ですが、年齢も5歳違いました。

『史論ー力道山道場三羽烏』(小泉悦次著、辰巳出版)には、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の、東京スポーツにおける第2回ワールドリーグ戦の観戦記が本書に引用されています。

『史論ー力道山道場三羽烏』(辰巳出版)はジャイアント馬場、大木金太郎、アントニオ猪木のアメリカ武者修行時代俯瞰
『史論ー力道山道場三羽烏』(辰巳出版)を読了した。ジャイアント馬場、大木金太郎、アントニオ猪木という力道山道場三羽烏のアメリカ「武者修行」時代にスポットを当てて、誰が力道山の真の後継者だったのかを考えさせる書籍である。…

入門したばかり、デビュー前の新人の観戦記というのは大抜てきですが、それによると、ジャイアント馬場はプロレスを職業としてとらえ、解説者並みの分析と論評を行っていることに改めて驚かされます。

つまり、プロレスがなんたるかを、すでにこの時点で馬場正平は把握しているのです。

本書では、「猪木は馬場が切り出した言葉を受けるのに精一杯」と書かれていますが、いささか猪木寛至少年には気の毒ち思えるほど差は決定的でした。

ジャイアント馬場のプロレス観はすでにこの時期、はやくもおおむね完成した地固めの段階に入っており、その直後のアメリカ「武者修行」は、その結実の時期だったのす。

ジャイアント馬場は、アメリカで華々しいスターとしての扱いを受け、1963年には凱旋帰国。

力道山、豊登道春に次ぐポジションでした。

1963年秋から1964年春までは再度渡米し、全米の世界単三大タイトルに連続挑戦して、本場アメリカで押しも押されもせぬトップレスラーになりました。

力道山が亡くなってからは帰国して豊登道春と両輪として日本プロレスを支え、1965年の豊登退団以降は、馬場一強の状態で、少なくとも1969年まで単独エースとして活躍します。

一方のアントニオ猪木は、入門したての若者として、ただただ感想を述べているだけでした。

未知数なまま、日本でしばらく力道山の付き人として苦労し、1964年からのアメリカ生活は、ジャイアント馬場ほど華々しいものではなく、途中でいったん日本プロレスを離脱したこともあり、日本プロレス復帰後も、あくまでも「若獅子」の異名で、ジャイアント馬場を支えるナンバー2でした。

本書にも、日本プロレス時代は、BIといっても同じ格ではなく、「当時は、どっちが強いんだというのは愚問だった」と書かれています。

「(2人の師匠である)力道山先生は、野球界から転身、アメリカで華々しく活躍して凱旋した馬場さんを看板として大事に守り、その看板を盛り立てるスターが必要だという思いで可愛がったのが猪木さんでした。日本プロレス時代は、馬場さんと猪木さんはライバルなんて関係を超越した存在というのが、僕たちレスラーやファンの気持だったんですよ」(藤波辰爾さん)

その後、アントニオ猪木は新日本プロレスを、ジャイアント馬場は全日本プロレスを立ち上げましたが、その後は、「馬場に追いつけ追い越せ」のアントニオ猪木と、すでにレスラーとしては下り坂に入っていたジャイアント馬場は、レスラーとしても団体としても、アントニオ猪木・新日本プロレスに勢いがありました。

先人の強み

でも、これだけでは引き下がれないマニアもいるかもしれませんね。

では、ジャイアント馬場の全盛だった1964年~1969年と、アントニオ猪木の1974年~1979年あたりはどちらがすごいのかと。

それはもう、共通の物差しがなければ、あとはマニア各自の内心の自由で決めることでしょう。

さすれば、なぜ、私が上掲のように、アントニオ猪木はジャイアント馬場を超えられない、と書いたか。

ジャイアント馬場の全盛期の方が先だからです。

話は野球になりますが、ネットでこのエピソードがよく使われていますね。

プロ野球で、「もし、あなたが現代野球でプレーしていたら、どのくらいの成績を残せると思いますか?」という質問について、三人の大選手はこう答えました。

★王貞治★ 試合に出してすらもらえないんじゃないかな。全然レベルが違うからね。でも、もし僕が生まれ変わって、現代の栄養状態、現代のトレーニング方法で勝負するってことなら、今の選手にだって負けるつもりはないよ。

★野村克也★ よく聞かれるけど、いつもこう答えてるんだよね。「レギュラーにもなれません。今の野球はレベルが高すぎます」って。
「謙遜しないで」って言う人もいるけど、むしろ自慢してるんだよ。新しい技術や戦略を導入して、プロ野球のレベルアップに貢献してきたことが俺の誇りだから。

★金田正一★ ワシなら600勝できるよ。今の時代は160キロくらいで騒いでるけど、ワシの現役時代は軽く投げて170キロが当たり前だった。それに最近はちょっと肘が痛いくらいで登板回避する投手も多いね。やっぱり最近の選手は甘やかされて育つから気持ちが貧弱なんだろう。投手も打者も揃って小粒だよ。

野村克也さんの発言に、「先」であることの絶対性が含まれています。

今の選手は、自分たちの野球を前提に自分たちのプラスアルファを加えただけ。

もとを作った自分たちがいてこそ、今があるんだ、ということです。

話を戻せば、どんなにアントニオ猪木がすごくても、いきなりそれがあらわれたわけではなく、ジャイアント馬場のプロレスが会ったからこそのもの。

つまり、比較してどっちがすごいかではなく、そもそもアントニオ猪木の中には「ジャイアント馬場」という礎があり、それは否定しようがない、ということです。

伊達や酔狂で、年功序列とか、年の功といった価値観があるわけではありません。

みなさんは、いかが思われますか。

ま、論より証拠で、とにかく本書をご覧ください。

以上、『週刊ポスト増刊sepia昭和のライバル』(小学館)は、昭和を彩ったスターの、自他ともに認める「好敵手」との関係を特集、でした。


週刊ポスト 増刊 週刊ポストsepia 昭和のライバル [雑誌] – 週刊ポスト編集部


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