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雲上の巨人ジャイアント馬場(門馬忠雄著、文藝春秋)は、最古参プロレスジャーナリストが振り返るジャイアント馬場回想録です。

雲上の巨人ジャイアント馬場(門馬忠雄著、文藝春秋)は、最古参プロレスジャーナリストが振り返るジャイアント馬場回想録です。

雲上の巨人ジャイアント馬場(門馬忠雄著、文藝春秋)は、最古参プロレスジャーナリストが振り返るジャイアント馬場回想録です。自身も1993年に脳梗塞で倒れるものの、リハビリ後に執筆活動を続け、同じ歳のジャイアント馬場との交流は35年に及びました。

『雲上の巨人ジャイアント馬場』は、門馬忠雄さんが文藝春秋社から上梓した書籍です。

書籍の帯には、「僕たちは、馬場さんが好きで好きで、たまらなかった。」「プロレス界のレジェンドを、誰よりも知る男の35年にわたる、涙と笑いの回想録」と書かれ、裏には「ジャイアント馬場、没後22年。最古参プロレスジャーナリストが振り返る、昭和の『巨人』と伴走した遥かなる日々」と書かれています。

中身は、結論から書いてしまうと、これまでの門馬忠雄さんの書物を読んだことのある人なら、ほとんどは聞いたことのある話です。

また、Amazonの販売ページに書かれているレビューの通り、若干事実誤認も含まれています。

それでも、最古参プロレスジャーナリストが、日本プロレス界の最大のレジェンド・ジャイアント馬場との長い付き合いをまとめた書籍としての価値はあります。

文藝春秋社から刊行したのは、元子夫人がその出版社ならよいと許可したから。

ただし、書籍が完成したときは、元子夫人はすでに鬼籍に入っていました。

そういう意味では、門馬忠雄さんご自身のプロレスジャーナリスト生活の集大成ぐらいの気持ちを持っての執筆だったのではないでしょうか。

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ゲーリー・オブライトに受け身を教えたジャイアント馬場

Amazon販売ページのレビューにもありますが、本書は何冊かの参考文献があるようです。

巨人軍時代やアメリカ時代は、『1964年のジャイアント馬場』(柳澤健著、双葉社)を参考にしているようです。


どう間違っているかは、抜粋します。

「二軍時代、3年連続最優秀投手になっている」というのは、あちこちで見たような気がするので、どこかが情報源になっているのだと思いますが、たとえば『ジャイアント台風』の第1巻でも、数字に触れている箇所がありますね。

『ジャイアント台風』第1巻より

イースタン・リーグがなかったのは確かですが、別のチームを帯同して各地を回ったというのは、『1964年のジャイアント馬場』にも書いてあったのではないでしょうか。

そこでの数字や、チーム内表彰だったのかも知れませんね。

レビュアーは、『1964年のジャイアント馬場』よりも『巨人軍の巨人馬場正平』(広尾晃著、イースト・プレス)の方がきちんと取材をしているから信用が置けると書いています。


このブログでは、どちらの書籍もご紹介しているので、併せてお読みいただけると幸甚です。

ジャイアント馬場が川崎の新丸子に住んでいた時代に、前溝隆男さん(元全日本ミドル級チャンピオン、国際プロレスレフェリー)と知り合いだったことも書かれています。

それも、このブログでは『王の闇』(沢木耕太郎著、文藝春秋社)にかかれていることをご紹介しました。


ジャイアント馬場が糖尿病を隠していた、という箇所に驚くレビュアーがいますが、これも「今更」の話ですよね。

率直に言って、ジャイアント馬場の身体の衰えが早かったのは糖尿病によるものですし、それは巨人症も原因である可能性は、まさに『巨人軍の巨人馬場正平』に書かれています。

いえ、ジャイアント馬場に限らず、昭和プロレスのレスラーの一部、若い頃は肉弾のような身体をしていたのに、歳を取ってから痩せたレスラーは、「ああ、たぶん糖尿なんだろうな」と私は勘ぐっています。

アントニオ猪木だって糖尿でしたからね。

サンダー杉山や谷津嘉章などは、脚の切断もしているではないですか。

身体を大きくするために、きっと丼飯のノルマを決めて食べていたんじゃないでしょうか。

ゲーリー・オブライトに熱心に受け身を教えた、という点もレビュアーには驚かれていますね。

オブライトは、たぶんパワーもあって素材としては良かったんだけれど、レスラーとしては荒削りだったんでしょうね。

このままでは、四天王の2.9プロレスには対応できないと判断したのだと思います。

東海大学学生プロレス時代のMEN’Sテイオーにまでプロレスを教えていたぐらいですから、「さもありなん」ですね。

本書では、門馬忠雄さんもNWA総会に帯同したことを述べていますが、これは渕正信も自著『王道ブルース』で語っており、総会の実体があったことの裏付けになったのでよかったと思いました。

「総会」なんていうけど、実は商店街の寄り合いみたいなもんだ、なんてバカにしている人もいますよね。

でも、書かれている参加者の名前を見ると、各テリトリーからずいぶん参加していますし、加盟申請していたアントニオ猪木が会議室外で待機していたわけですから、やはりきちんとした場所で多くのプロモーターたちが参加して開催されていたのではないでしょうか。

そして、本書でも、ジャイアント馬場が各地のプロモーターから尊敬されていたという件が出てきますが、これは「敵」の新間寿さんも認めているので、間違いないでしょう。

私が「おっ」と思ったのは、ユダヤ人に関する記述です。

ジャイアント馬場が読書家という話になり、『日本人とユダヤ人』について、「プロレスの世界では、ユダヤ人のことを知っておかないと商売できないからね。横文字を翻訳した本は苦手だね。カタカナの名前が面倒くさくなってわけが分からなくなる(笑)」と言ったところです。

言われてみれば、米マット界を牛耳っていたNWAの大物幹部は、会長のサム・マソニック、書記のジム・バーネット、テキサス・ダラスのプロモーター、フリッツ・フォン・エリックも、みなユダヤ系のアメリカ人、同じユダヤ系のブルーザー・ブロディが、エリックを『ボス』と呼び、彼の指示に黙って従っていたのもなるほどとうなずける

ああそうか、そういえばそうだなあと思いました。

ジャイアント馬場は、そこまで考えているのかと、びっくりしたわけです。

佐藤昭雄さんは、経営者としてのジャイアント馬場を全く認めていないでしょ?

でも、そんなに「なっちゃいない人」だとは思えないんですね。

プロモーターとして信頼を得るというのは、ただガイジンに気前がいいからとか、ギャラの値引きがないからとか、それだけではないと思うんです。

レスラーの価値を壊さないとか、同じ世界で仕事をしている仲間として見ているとか、そういうこともあるんじゃないでしょうか。

本書に書かれていないエピソード

門馬忠雄さんは、ご自身のことは全く書かれていませんが、もともとは東京スポーツの記者でした。

そこから、いつのまにか「プロレス評論家」に肩書が変わっていました。

全日本プロレス中継の解説を担当する、山田隆さんもそうでした。

つまり、東京スポーツ新聞社を、あるとき、おふたりとも退社したわけです。

横道にそれますが、1987~1988年頃、私は個人的に山田隆さんとはお付き合いがありました。

山田隆さんが、なぜか、ご自身の月刊誌連載の枠をひとつ私に譲ってくれ、しばらく同じ雑誌で仕事をしていたのです。

その雑誌は、島本慶さんという方の会社がまるごと請け負っていて、私は出入りの一ライターとして関わっていましたが、山田隆さんは「客分」としてその会社にデスクを置いていたので、月に最低でも1回はお会いしていました。

島本慶さんというより、風俗ライターのなめだるま親方、と言ったほうが通りはいいのかな。

その関係で、山田隆さんには、ごちそうになったり、プロレスの話をうかがったりしていましたが、門馬忠雄さんについては、「門馬には悪いことをしました」と何度か聞いたことがあります。

山田隆さんも、どう悪かったのかは具体的には話しませんでしたが、東京スポーツ新聞社の場合、50代になってからの退職金は、1つ歳を取るごとに大きく変わってくるので、もうちょっと頑張っても良かった、というようなことは仰っていました。

いずれにしても、フリーになってからの山田隆さんは、全日本プロレス中継の解説以外は、その雑誌のライターとして執筆活動は続けていましたが、連載していたのはグルメ記事でした。

そして、私が譲り受けた連載は、バブル時代らしく財テク(笑)

いや、私は損保会社出身ですから、大きな枠組みではお金を扱う仕事なので構いませんが、「プロレス新聞」の役職者だった“あの”山田隆さんが、風俗雑誌のグルメと財テクの記事で、日本テレビの解説料に満たない原稿料で糊口をしのぐというのは、『愛しのボッチャー』にも登場した有名解説者の「あの人は今」としては、ちょっと寂しい感じでした。


解説の仕事も、その後まもなく外されてしまいましたしね。

そして、2年ぐらいたって訃報が……。

そう考えると、「気の毒」した門馬忠雄さんが、その後も一貫してプロレスの仕事を続けたーしかも途中で命を脅かすような病気も経験しているのにーというのは、私は何よりだと思いました。

以上、雲上の巨人ジャイアント馬場(門馬忠雄著、文藝春秋)は、最古参プロレスジャーナリストが振り返るジャイアント馬場回想録です。でした。


雲上の巨人 ジャイアント馬場 – 門馬 忠雄

雲上の巨人ジャイアント馬場[本/雑誌] / 門馬忠雄/著 – ネオウィング 楽天市場店

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