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「原発ゼロ」プログラム(安斎育郎、舘野淳、竹濱朝美著、かもがわ出版)は、闇雲に反対ではなく研究者の未来に向けた提案

「原発ゼロ」プログラム(安斎育郎、舘野淳、竹濱朝美著、かもがわ出版)は、闇雲に反対ではなく研究者の未来に向けた提案

『「原発ゼロ」プログラム』(安斎育郎、舘野淳、竹濱朝美著、かもがわ出版)は、闇雲に反対ではなく研究者の未来に向けた提案です。どうすればゼロにできるか、という計画を、それぞれの専門分野から科学的、社会政策的に模索し、提案している書籍です。

『「原発ゼロ」プログラム』は、安斎育郎さん、舘野淳さん、竹濱朝美さんらによって、かもがわ出版から上梓されています。

おっ、日本共産党除名問題でにわかにトレンド言語になりましたね。

直接かもがわ出版は関係ありませんが、松竹伸幸さんが編集部主幹だそうで。

私も20年ぐらい前、この出版社で3冊上梓しているんですけどね。

たとえば、『暦・占い・おまじない』とかね。


まあ、それはともかくとして、著者らは原発再稼働に反対する立場です。

ただし、闇雲に反対と騒ぐのではなく、どうすればゼロにできるか、という計画を、科学的、社会政策的に模索し、提案している書籍です。

安斎育郎さん(放射線防護学、平和学)は、福島第1原発事故以来、研究者、技術者数名と「福島プロジェクトチーム」を組織しました。

定期的に福島の市町村に赴き、民家、公園、保育園、公道、林などの、放射能汚染や放射線被曝の実態調査を行っています。

この方は、東京大学の助手時代、自由民主党の原発行政に批判的だっただけで、まるで罪人のように監視がつき、出世もできなくなり、東京大学に残れず、立命館大学に移られた方です。

日本では、この問題に触れてはいけない、というタブーがいくつかあり、原発問題はそのひとつらしいですね。

なんとなれば、『ホームレス収容所で暮らしてみた台東寮218日貧困共同生活』(彩図社)の著者の川上武志さんも、やはり原発労働者だったことで反原発運動を行ったことから、官憲の監視が厳しくなり、家を捨ててホームレスとして東京に流れてきたわけです。


その安斎育郎さんが、舘野淳さん(核燃料工学)、竹濱朝美さん(環境社会学)と共著で上梓したのが、本書『「原発ゼロ」プログラム』です。

原発反対、やめましょう、だけを叫ぶユートピア論でも、放射能キケンキケンという煽り本でもありません

あくまでも研究者として、それぞれの専門分野から、どこまでが安全なのか、今の科学技術で何ができるのか、という現実を前提に、原発に頼らない社会を展望しています。

たとえば、安斎育郎氏は、福島原発の教訓として、経済合理主義や利便性だけでなく「危険性」も省みること、観念的な安全論に陥らずに実証性に執着すること、市民も国任せにせず良き懐疑論者として批判的思考を培うことなどを述べています。

原発再稼働に反対でない人も、フェアな気持ちで前向きに考えることができる書籍だと思います。

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「原発ゼロ」に対する賛成派と反対派の意見をまとめる

「原発ゼロ」プログラムは、原子力発電所の全廃を目指すエネルギー政策です。

このプログラムに対する賛成派、反対派の意見は、以下のようにまとめることができます。

以上のように、原発ゼロプログラムに対する評価は賛否両論あります。

一方で、地球環境や国民の安全性を考えると、再生可能エネルギーへの転換を進める必要性は高まっています。

脱原発の旗印とはなにか

本書でいちばん印象に残ったのは、「脱原発の市民運動を『国策』転換を求める国民運動のレベルまで高めない限り、福島の経験を活かしきれないのではないか」という件です。

つまり、「脱原発」を実現したいなら、その思いや立場にある者が、共通の課題に対する共同のたたかいに発展しなければならないということです。

わざわざそう書かれているということは、現実はそうなっていない、という実感が著者の側にあるのでしょうね。

原発再稼働反対者といっても、実は2派あるようです。

ひとつは、科学的根拠から、客観的に放射線汚染を判断しつつ、総合的に考えて再稼働はやめた方がいいという立場。

要するに、科学と技術の現状から回答を出すという立場です。

もうひとつは、科学もへったくれもなく、とにかく放射線は怖い怖いと煽って、反対というより否定する立場です。

つまり脱原発というよりも、その正体は反科学であり、かつ反社会的立場。

後者の中には、食品添加物、電磁波、水道水など、この世の中の叡智のありとあらゆるものについて頭から危険煽りをしている人たちがいます。

その人々は、汚染レベルの程度を全く無視して、放射能はとにかく怖いと人々に不安を煽り、福島(の人々)に対しては差別の風潮を作りました。

そして、科学的に判断する研究者には、「隠蔽工作を行っている」という、論難・攻撃を行ってきました。

例の『美味しんぼ』の「鼻血騒動」によって、いよいよその2潮流の「溝」が公然とした感があります。

少なくとも、まじめに(合理的にという意味)原発問題にアプローチしたい人は、再稼働賛成派でも反対派でも、こうした書籍の提言・提案をきっかけに、建設的な議論を行ってほしいものだと思います。

なぜ科学と向き合わないのか

……と、ここまでは書籍の感想で、以下はそれに関連した、直接同書とは関係ない私個人のざっくばらんな意見です。

ネットのブログを巡回すると、いまだに「鼻血」の話を信じこみ、それを批判したり否定したりする意見を、まるで言葉の暴力のように唾棄する人々がいるようです。

私は、その人々は、科学と向き合うことから逃げていると思います。

私は無知・無学です。

ただし、私は科学から逃げません。

調べよう、学ぼうという意欲と出来る限りの実践を試みています。

一部の「脱原発」者にはそれがありません。

福島は鼻血がでる、という話がある。

すると、疑いもせず、それを鵜呑みにする。

ジョーダンじゃありません。

放射線防護学から裏を取ったのでしょうか。

現地に行ってしらべたのでしょうか。

専門家の意見を聞き、自覚的にアプローチしたのでしょうか。

何もしちゃいないでしょう。

自分に耳障りの良い煽り意見だけを集めて、妄想を積み上げているだけでしょう。

安斎育郎さんが、福島原発の反省と教訓として述べている「実証性に執着すること」にも反しているのです。

たとえば、原発周辺の避難地域、福島市や伊達市など少し離れた地域、会津や郡山などさらに離れた地域では、数値も危険度も全く違います。

それをすべて一緒くたにして、「福島はあぶない」というあいまいな言い方自体が、非科学的であり、福島在住の人々を傷つけていることにいつになったら気づくのでしょうか。

冒頭から、科学科学と書いていますが、科学が無謬万能だというわけではありません。

過去には、原爆、公害、BSE、アスベストなど、科学者の力不足であったり、そのときの科学の水準の限界であったりもして、科学が災いをもたらしたり、科学が災禍の役に立たなかったりした歴史があることは事実です。

そういう一面だけで、科学嫌いの潮流が人類に一定程度存在するのも残念ですが確かです。

もとより、科学というのは、相対的真理の長い系列にあるものですから、未来の不幸を避けるための予言などはできません。

ですから、福島在住の人から、将来原発由来のがんが絶対に判明しないと断言はできません。

ただ、もし、将来本当に鼻血や原発由来のがんが出たとして、それは、いまキケンキケンと騒いでいる連中の慧眼や手柄というわけでは決してないでしょう。

その連中が、科学を憎み、科学と違うことをいって“たまたま”当たったというだけの話です。

なぜなら、キケン派には、キケンであると認定する体系的な理論も根拠もないからです。

先程も書いたように、原発だけではなく、食品添加物、電磁波、水道水……、

科学的文明に憎悪をぶつけるキケンキケン派は必ずいるのです。

でもねえ、だからといって人類が科学を根本から放棄したらどうなるのでしょうか。そんな社会、想像もつかないですよね。

キケンキケン派だって、その恩恵に浴しているくせに、そこまでまじめに考えてキケン煽りをしているわけではありません。

私は、そんなご都合主義の無責任な人間は信用しません。

なんというか、社会のあらゆることにケチを付けて、自己アピールしているような人が多いですよね。そういう陣営の人って。

一見左翼人士っぽいんだけど、実はその方がアピールしやすいからそうしてるだけで、実は政治思想の右左関係ない、たんなる目立ちたがり屋さんだったりして(笑)

個人の価値観が様々なのは当然ですが、どういう社会にしたいのか、という話になった時、社会の発展を支えてきた科学や科学的思考というものを軽んじてはならないと私は考えます。

以上、「原発ゼロ」プログラム(安斎育郎、舘野淳、竹濱朝美著、かもがわ出版)は、闇雲に反対ではなく研究者の未来に向けた提案、でした。


「原発ゼロ」プログラム―技術の現状と私たちの挑戦 (希望シリーズ) – 安斎 育郎, 竹濱 朝美, 舘野 淳

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