池袋暴走事故で家族を失われた松永拓也さんの言葉が、多くの人の胸を打っています。「妻と娘の命を無駄にしないために」という活動の根底に、「自分が生きている実感を得たい」という気持ちがあるのではないかという葛藤。
これは一見、利他活動に潜む「利己性」への後ろめたさのように見えます。しかし、仏教の「自利利他」の観点から見れば、この心情は人間としてごく自然であり、むしろ健全な在り方なのです。
池袋暴走事故とは、2019年4月19日に東京都豊島区東池袋四丁目で発生した交通死傷事故のことです。
東池袋自動車暴走死傷事故とも呼称されます。
乗用車を運転していた87歳のドライバー飯塚幸三受刑者(獄死)が、ブレーキとアクセルを踏み間違えたことによって車を暴走させ、交差点に進入。
歩行者・自転車らを次々にはね、計11人を死傷させた事故が、今日で7年になります。
運転手が逮捕されなかったことや、「容疑者」呼称ではなく肩書で報道されたことに人々から批判の声が上がりました。
旧通産省工業技術院の元院長などの肩書や経歴から特別扱いではないのか、という疑いから、「上級国民」という言葉がトレンドになりました。
これを機に、高齢ドライバーの運転免許証の自主返納が増加しました。
自利利他の本来の意味
明日で39歳になります。事故当時は32歳。月日が経ちました。… pic.twitter.com/CsPqi2bnKl
— 池袋暴走事故遺族 松永拓也 (@ma_nariko) August 25, 2025
仏教で説かれる自利利他とは、自己の修行や悟りを追求する「自利」と、他者を救済する「利他」が一体となった概念です。これは単なる「他人のために尽くす」という意味ではありません。自己の成長と他者への貢献が相互に作用し合い、どちらか一方だけでは完成しないという深い智慧に基づいています。
大乗仏教では、利他行なくして自らの悟りは完成せず、同時に自己の修行なくして真の他者支援はできないと説きます。このように、自利と利他は対立する概念ではなく、車の両輪のように相互に補完し合う関係なのです。
後ろめたさの根源
松永さんが感じられる後ろめたさは、現代社会における「利他」の誤った理解に起因する部分が大きいと言えます。私たちは往々にして、「純粋な利他」とは自己の利益を一切考えない無私の行為だと考えがちです。しかし、そのような完全な無私は現実にはほとんど存在せず、それを理想として掲げることで、かえって自己欺瞞や罪悪感を生み出してしまいます。
人間の行為には常に多層的な動機が存在します。他者を助けたいという気持ちと、それによって自分も充実感や意味を見出したいという気持ちは、決して矛盾しません。むしろ、その両方があってこそ、持続的な善行が可能になるのです。
持続可能な善のための自利
心理学の研究でも、ボランティア活動などに従事する人々は、他者に貢献しているという実感と同時に、自己成長や生きがいといった個人的な利益も得ていることが明らかになっています。この「自利的」な側面こそが、困難な活動を持続させる原動力となります。
松永さんの場合、「妻と娘の命を無駄にしたくない」という思いと「自分が生きている実感を得たい」という気持ちは、互いに支え合う関係にあります。悲劇を単なる悲劇で終わらせないためには、その経験を意味あるものに変えたいという個人的な欲求が必要不可欠なのです。
仏教の智慧が教えるもの
仏教の観点から見れば、自利と利他を分離して考えること自体が誤りです。『法華経』には「自未得度先度他」(自分が未だ度されないうちに先ず他を度す)という菩薩の理想が説かれますが、これは他者を救う過程で自己も救われるという逆説的な智慧を示しています。
私たちは他者への貢献を通じてのみ、真の自己実現が可能となります。同時に、自己の成長なくして他者に真に貢献することはできません。この相互依存関係を理解することが、自利利他の真髄なのであります。
純粋性という幻想
はじめまして。
ご自分のためにやっている、自己中心的、全然良いと思います。
松永さんの活動によって、世の中が動きました。
人のためになる自己中心的は良いのです。
世間では自己中を悪くとらえがちですが、それは他人に迷惑をかけるからだと思います。
ですので、気持ちを楽になさってください。— naga-e (@sennagasa) August 25, 2025
「純粋な利他」を追求することは、時に危険ですらあります。なぜなら、完全な無私という幻想は、達成不可能な理想として人を苦しめるか、あるいは自己の利益を無視した結果、燃え尽き症候群を引き起こすからです。
松永さんの気付き―「誰かの役に立つことで、妻と娘の命を無駄にしていないと思いたい」―は、一見後ろめたいように感じられるかもしれませんが、実は非常に健全な自己認識です。この自己認識があってこそ、活動を持続させ、真の意味で他者に貢献できるのです。
おわりに
池袋の悲劇で家族を失われた松永さんの葛藤は、利他と自利の複雑な関係を深く考えさせます。その気付きは、単なる後ろめたさではなく、人間の深い心理に対する洞察と言えるでしょう。
自利利他の精神は、決して間違いではありません。むしろ、私たちが意味ある人生を送り、持続的に他者に貢献するための智慧なのであります。松永さんの活動が、自分自身の癒しと成長につながると同時に、社会にとって大きな意味を持つものであることに疑いの余地はありません。
悲しみを抱えながらも前を向いて歩まれる松永さんのように、自利と利他を統合した生き方が、より深い人間性と持続可能な社会貢献を可能にするのであります。
はじめての利他学 NHK出版 学びのきほん – 若松 英輔
理想的な利他 仏教から考える – 平岡 聡