
佳那晃子さんの訃報が話題です。Xにおける関連ポストで、彼女を「俳優」ではなく「女優」と呼ぶべきだというポストが興味深いと思いました。フェミニズムの潮流から、すべてを男女統一化したがる傾向の中で、言葉の変化が文化遺産を抹消することを懸念しています。
2013年1月、佳那晃子さんはクモ膜下出血で倒れ、いったんは脳死の危機にあったことを夫の源高志さんが明らかにしました。
【訃報】女優・佳那晃子さん死去 70歳、2013年に「脳死」宣告https://t.co/YGsmm9TaTC
佳那さんは映画『魔界転生』、TBS系ドラマ『金曜日の妻たちへ』など話題作に出演。2013年には佳那さんがくも膜下出血で倒れ「脳死」を宣告されていたことを公表した。 pic.twitter.com/dgddc6v1xX
— ライブドアニュース (@livedoornews) March 23, 2026
その後、遷延性意識障害(いわゆる植物人間)から、高次脳機能障害まで「回復」し、本人の意志で手足や体を動かせるまでになっていたようなので、社会復帰を果たせず亡くなったことはまことに残念です。
「遷延性意識障害 → 高次脳機能障害レベルまで回復 → 社会復帰」という流れは、
「医学的にも現実的にもかなり低い割合」(ChatGTPより)とされています。
たとえば、小学校2年のときに、火災で遷延性意識障害(要介護5、生後6ヶ月程度の知能と診断)になり、そこから自力生活能力を回復して、8年後に普通科の高等学校に復帰できた私の長男の例は、まあたぶん100人に1人もいないでしょう。
不幸中の幸い? いやいや、きやすく「幸い」とか使わないでほしいです。手帳持ってるんですから。
それはともかくとして、佳那晃子さんの訃報に際して、興味深いポストがありました。
女性を「女優」と呼んではいけないのか
女優を俳優と呼称するのは間違っている。女優には女優が持つ独特の響きがある。それは何十年もかけて培ってきた成果だ。それを抹殺する事になる。
なお、本文では
「女優の佳那晃子さん」
となっていた。記者の抵抗か。俳優・佳那晃子さん死去 闘病13年 2026年3月23日 https://t.co/5dgxlIYlUY
— デューク???? (@6LEjH8DcDxuhN1s) March 23, 2026
「女優を俳優と呼称するのは間違っている。女優には女優が持つ独特の響きがある。それは何十年もかけて培ってきた成果だ。それを抹殺する事になる。
なお、本文では
「女優の佳那晃子さん」
となっていた。記者の抵抗か。」
本文というのは、Yahooニュースです。
フェミニズムの一部では、「俳優(actor)」が本来は性別中立の職業名なのに、女性だけを区別するのは不平等ではないか。
男性は「俳優」で、女性だけ「女優」と分けることで「男性が標準」という構造を温存している。
英語圏でも「actress」から「actor」へ統一する流れが進んでいる。
つまり、「俳優」に統一するのが平等だというわけです。
一方、「女優」という呼び方を擁護する立場は、「女優」は単なる区別ではなく、文化的に蓄積されたニュアンスがある。
日本語としての美意識・響き・歴史がある。
言葉の統一はむしろ多様性の抹消ではないか。
つまり、「俳優」とは別に「女優」という呼び方があっても差別とは限らない、という考え方です。
上掲のポストがそうです。
私もその意見です。
なぜなら、ケースは少ないかもしれませんが、「男優」という表現も皆無ではないからです。
つまり、「女」と区別しているわけではなく、
1.そもそも「男優」も「女優」も言葉としては存在する(つまり対等の建前は担保されている)
2.これまで(今も?)男社会だったからこそ、つまり、極端に言えば「人=男」のような価値観の社会だからこそ、「いや、女性ならではの演者もいるのだ」という、女性に対する積極的な評価という意味合いが「女優」という言葉にはあったはずで、そこを見ないで、あたかも差別の言葉だと決めつけるのはどうなんだろうと思います。
冒頭の話にもなるけれど、「障害者」のことを、「障がい者」とか書いて、「私は言葉に気を使う素敵な人間」とか思ってるやつがいるんですが、過半数の障害者は、そういう「配慮」とジコマンに辟易していると思います。
だって、言葉なんて、本質ではないんですよね。二の次なんですよ。
実態を改善せずに言葉から押さえつけるのは、やはり言葉狩りのそしりは免れないと思います。
妻を「妻」と言ってなぜ悪い
ちなみに私は、「妻」と書き、「パートナー」とか「連れ合い」といった曖昧な書き方は一切しません。
事実婚の時代は「連れ合い」と表現したこともありましたが、婚姻してからは一貫して「妻」です。
なぜなら、「女優」という言葉を尊重するのと同じです。
私には妻の役割は果たせないからです。そして、同性婚でもないから。
「パートナー」とか「連れ合い」などには、ことさら「対等」性を対外的にアピールするねらいを感じますが、私は別に亭主関白でもないし、だからといってそれをアピールするつもりもないし。
そもそもひとさまからどう見られようと関係ないし。
繰り返しますが、うわべの言葉にこだわるのは、ニセモノだとわたしは思っています。
言葉はむしろ、人々の合意のもとにできあがるものだと思います。
人は使いやすい言葉を自由に使ううちに、収まるところに収まる、という流れが自然ではないでしょうか。
みなさんは、どう思われますか。
植物人間が歩いた!話した!ごはんも食べた!遷延性意識障害からの生還-リハビリと学習の記録1: ~遷延性意識障害から転学まで~ (市井のeブックレット) – みお なおみ
