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ネットは勧善懲悪動画に溢れていますが、「自業自得」「一生苦しめ」など過激なコメントの羅列に「薄っぺらさ」を感じませんか。

ネットは勧善懲悪動画に溢れていますが、「自業自得」「一生苦しめ」など過激なコメントの羅列に「薄っぺらさ」を感じませんか。

パソコンやスマートフォンの画面をなぞれば、至る所で「不倫した夫が悲惨な末路を辿る」ショート動画や、掲示板のまとめ記事に出くわします。しかし、そのコメント欄に溢れる「自業自得」「一生苦しめ」といった過激な言葉の羅列に、ふと「薄っぺらさ」を感じたことはありませんか。

今回は、久しぶりにショート動画にツッコミを入れてみます。

まず、ストーリーのご紹介から書き進めます。

主人公(娘)の父が亡くなり、父の愛人と隠し子が発覚しました。

しかし、母は毅然とした態度で法的な決着をつけ、過去の父の遺物をすべて処分することで、自らの尊厳を守り抜きました。

彼女は負の遺産に執着せず、晩年は多くの教え子や、周囲の人々に慕われる愛に満ちた人生を歩んでいます。

最終的に、多くの参列者に惜しまれながら世を去った母の姿は、裏切り続けた父よりも精神的な勝利を収めたというストーリーです。

「亡き父の不倫と隠し子」という衝撃的な裏切りに直面した家族が、母の強さと誇りによって再生していく姿を感動しなければならない「スカッとする話」です。

で、私はいつものように、そういう「ねばならない」に警鐘を乱打する(笑)冷水コメントをぶち込みました。

対外的な評価の高い妻に対する夫の心の内奥は?


私のコメントをそのまま書きます。

対外的な評価の高い妻は注意が必要
夫はコンプレックスを感じていたか、もしくは第三者からは見えない妻の欠点があっても誰も話を聞いてくれないという疎外感があったのかも。
不倫は民法的にはアウトだけど、人の気持ちという観点からは、夫を悪者にして済ませる話ではないかもしれない。」

すると、さっそく激昂した反論が来ました。

「民法的だけでなく人としてもアウトです!」

ふふふ、この人は、さぞかし清廉潔白な生き方なんでしょうね。

人間は縁と成り行きで、誰でも不倫する側にもされる側にも成り得る弱い存在であり、さすれば不倫した側を叩いてスッキリ完結ではなくて、なぜ不倫したのかにむしろ興味がわくのですが、ネットの反応があまりにも単純なので、私は呆れてついていけないことがあります。

脳が求める「正義の味方」という麻薬

ネットコンテンツが過激な勧善懲悪を好むのは、それが安価で中毒性の高い「娯楽」だからです。

悪者を叩くという行為は、脳内でドーパミンを分泌させます。自分は正しい側に立ち、悪を裁いている。その万能感は、手軽に自尊心を満たす麻薬となります。動画の制作者は、視聴者が深く考えずに「正解の感想」を投下できるレールをあらかじめ敷いています。

私たちは今、アルゴリズムが用意した「怒り」を消費させられているに過ぎません。その熱狂に身を任せることは、自身の思考を放棄することと同義ではないでしょうか。

「縁と成り行き」で私たちは誰でも「あちら側」になり得る

「不倫をした側」を絶対的な悪と定義し、自分を「決してそちらには行かない正義」と切り分ける。

それは生存戦略としては理解できますが、あまりに脆い境界線です。

人間は完璧な倫理観だけで生きているわけではありません。

孤独。歪み。タイミング。魔が差すような環境。

そうした「縁」さえ揃えば、誰しもが道を踏み外す可能性を秘めています。

「自分は絶対に大丈夫だ」と断じる人ほど、実は自らの足元の揺らぎに怯えています。

ネットにありがちな、他者を容赦なく叩く行為は、自分と「悪」との間に無理やり壁を築き、安全圏を確認しようとする不安の裏返しなのです。

「完璧すぎる配偶者」が家庭内に生む、見えない窒息感

不倫劇の裏側には、しばしば「対外的な評価が極めて高い配偶者」の存在が隠されています。

周囲から「あんなに良い奥さん(旦那さん)なのに」と絶賛されるパートナー。

その「正しさ」こそが、時に鋭い刃となります。

逃げ場のない「正論」で詰め寄られる日々。それは「見えない加害性」として、相手を精神的な檻に閉じ込めます。

もし苦しみを漏らしても、周囲は「贅沢な悩みだ」と一蹴するでしょう。この絶望的な疎外感こそが、人を外の世界へと駆り立てる動機になり得るのです。

スカッとする動画は、この「裏のダイナミクス、心模様」を決して描きません

しかし、完璧すぎる正義が他者を窒息させるという皮肉な現実は、家庭内に厳然と存在しています。

民法の「正しさ」と、感情の「割り切れなさ」の乖離

不倫は法的には不法行為です。

不倫された側が、不倫した側を絶対に許さないことも全く否定しません。

しかし、人の心の動きは、法律の条文のように白黒つけられるものではないことも確かなのです。

そこには、承認欲求や老いへの恐怖、居場所のなさといった、泥臭い背景が横たわっています。

だから、「不倫という結果」だけを叩いて思考を停止させるのは、惜しいということです。

「なぜそうなったのか」という心理的背景に目を向けること。それは相手を甘やかすことではなく、一つの「知的な誠実さ」です。

他者の過ちを「他山の石」として、人間の弱さや深淵を学ぶ。

その知的スタミナこそが、現代の私たちに最も欠けているものではないでしょうか。

記号の物語を脱ぎ捨てて、立体的な人間を見つめる

ネットのコメント欄は、いわば「コロシアムの野次馬」が上げる怒号のようなものです。

そこにあるのは、熟考された意見ではなく、刹那的な感情の吐き出しに過ぎません。

安易な正義のレールを降り、複雑な現実を複雑なまま受け止める。その想像力を持つことは、時として孤独で、疲れる作業です。

しかし、誰かを「悪役」という記号に当てはめ、石を投げるだけの日常は、私たちの知性と精神を確実に痩せ細らせていきます

動画だけの話ではありません、もちろんリアルな人間関係でもいえることです。

みなさんは、目の前の人の言動に対して、うわべだけでなく、「見えない背景」を想像する余裕を、いつも持ち続けられていますか?


不倫―実証分析が示す全貌 (中公新書 2737) – 五十嵐 彰, 迫田 さやか

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