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友情結婚は現代社会のライフスタイル多様化、個人の自己実現や経済的安定へのニーズの高まりによるが仏教としてどう考えるか

友情結婚は現代社会のライフスタイル多様化、個人の自己実現や経済的安定へのニーズの高まりによるが仏教としてどう考えるか

友情結婚が今話題になっています。背景には、現代社会の価値観やライフスタイルの多様化、個人の自己実現や経済的安定へのニーズの高まりがあるとされます。この話題化のライフスタイルは、仏教としてどう見たらいいのかも考えてみました。

従来の「恋愛感情ありき」の結婚とは一線を画すこのスタイルは、恋愛や性的関係を前提とせず、精神的な結びつきや価値観の共有を基盤にした新しいパートナーシップの形として、若い世代を中心に広がりを見せているそうです。

友情結婚とは何か?

結婚=恋愛という固定観念からの脱却


これまで「結婚」と言えば、恋愛を経て性的な関係を持ち、子どもを育てていくという、一つの理想像が社会に共有されていました。しかし、すべての人がこの枠組みに収まるわけではありません。

アロマンティック(恋愛感情を持たない)、アセクシュアル(性的欲求を持たない)といったセクシュアリティの人々をはじめ、LGBTQ+コミュニティの一部や、「恋愛はしたくないけれど誰かと人生をともに歩みたい」と考える人々にとって、友情結婚は自然な選択肢となりつつあります。

また、恋愛に重きを置かない人々に限らず、キャリアや趣味を優先したい、老後を一緒に支え合えるパートナーが欲しい、という現実的なニーズから友情結婚を選ぶ人も少なくありません。

当事者同士の合意と相互理解に基づいている


友情結婚とは、恋愛感情や性的関係を伴わない結婚形態のことです。お互いの価値観や生活スタイルが一致し、信頼と友情を基盤にしたパートナーシップを築くという点が特徴です。

たとえば、「老後の生活を支え合いたい」「税制上の優遇を受けたい」「親の介護を協力して行いたい」など、恋愛感情とは別の現実的な目的から結婚するケースもあります。

ここで注意したいのは、友情結婚は「偽装結婚(ビザや金銭目的)」とは異なり、あくまで当事者同士の合意と相互理解に基づいているという点です。

SNSと当事者の発信が生んだ広がり
友情結婚が注目を集める背景には、SNSやメディアを通じた当事者の積極的な発信もあります。

AIアシスタントのGensparkによると、たとえば、YouTubeやX(旧Twitter)などで、自らの友情結婚の体験や生活の工夫、課題を率直に共有する人々が増えており、それを見た人が「こんな生き方もあるのか」と考えるきっかけになっています。

また、日本だけでなく中国や韓国などでも似た動きがあり、共働きや個人主義の浸透した都市部を中心に、友情結婚は静かな広がりを見せています。

これまで結婚をあきらめていた人や、周囲の結婚観に違和感を持っていた人々が、自分らしい家族の形を模索する中で、友情結婚が現実的な選択肢として受け入れられつつあります。

まず、従来の結婚は恋愛や性愛を前提とするものでしたが、友情結婚は「恋愛感情や性愛を必須とせず、精神的な結びつきや共通の価値観・目標を重視する」新しい結婚の形です。

このため、恋愛や性的関係に重きを置かない人々、たとえばアロマンティックやアセクシュアルといったセクシュアリティの人々や、LGBTQコミュニティの一部にとって、安心して人生を共にできるパートナーシップとして注目されています。

また、仕事や趣味、個人の時間を大切にしたいという人が増え、結婚に対する期待や目的も多様化しています。経済的な安定や将来的な介護、子育ての協力者が欲しいといった現実的な理由から友情結婚を選ぶケースも増えています。

新しいライフスタイルの一つになるか
「友情結婚」とは、恋愛や性的関係を前提としない結婚の形態を指します。恋愛感情や性行為を伴わず、互いの考え方や価値観、生活上の条件などが一致した者同士が、友情や信頼に基づきウィンウィンな関係を築く婚姻です。

これは偽装結婚(ビザ・金銭目的など)や契約結婚(期間限定など)とは異なり、当事者同士が納得し合意した上で、互いの人生を支え合う新しいライフスタイルの一つとされています。

近年、結婚観や家族観が多様化し、恋愛や性に重きを置かない人々、特にLGBTQ+などのセクシャルマイノリティの間で「友情結婚」が選択肢として注目されています。

また、親や社会からの結婚プレッシャー、孤独感の解消、キャリアや世間体の維持など、動機は多様です。

SNSやメディアでの紹介を契機に、若い世代を中心に話題となり、日本だけでなく中国など海外でも関心が高まっています。

そこまでして、どうして「婚姻」にこだわる?


一方で、そこまでして、どうして「婚姻」にこだわるのか、という意見もあります。

「友情」なら、友だちとして付き合えばそれでいいのではないでしょうか。

一緒に生活することで、嫌なところも見えてきますし、それは不毛なストレスでしかないと思います。

たとえば、AとBが「友情結婚」したとして、Bに異性の肉体関係を伴う別の相手がいたら、その場合どうなるのでしょう。

友情関係だから、Aは相手が何をしようと関係ない?

いや、だったら、偽装結婚の温床になりませんか。

老後が心配?

いや、グループホームというのもありますし、ひとによっては、大きな家を買うか借りるかして、複数の人達で共同生活を営むこともあるでしょう。

孤独死したら困る?

いや、そんなの家族がいたってどうなるかわからないですよ。家族が旅行で留守中、自分が突然死したら、家族が帰ってくるまでそのまんまですから、

搭乗・乗車中の事故などでないかぎり、人間死ぬときはひとりなんですよ!

ことほどさように、“一人でない状態”を過大に期待しすぎ。

言い方をかえれば、一人であることを恐れ過ぎなんじゃないでしょうか。

「一人であること」を恐れる煩悩?

仏教では、「一切皆苦」として、人間の苦の根本に「執着」があると教えます。これは人間関係も例外ではありません。

結婚という制度、あるいは誰かと「一緒にいること」に安心を求めすぎるとき、それは根本的な不安(無常)から逃れるための依存になっていないでしょうか。

「生まれいずるのも滅するのも一人」

この言葉には、仏教的な生死観(生も死も「自己」の本質には関わらないという無我の教え)が如実に表れています。

「友情結婚」とはいえ、戸籍という法制度に登録し、法的な保障を得ることで精神的な安心を得ようとするならば、それはやはり一種の執着=渇愛(タナー)と見ることもできるでしょう。

「一人であること」を恐れ、それを何らかの形で補おうとするならば、たとえその形が性愛を伴わなくても、「無明」からの行動である可能性があるというご指摘は、まさに仏教的な問いかけです。

「制度」による安定への欲望は、やはり「貪」なのか?
友情結婚の多くは、生活の安定や老後の支え合い、社会的な「パートナー」の外観を得ることを目的としています。

ここには「法(ダルマ)」によってではなく、「制度(法制)」によって苦を和らげようとする姿勢が見え隠れします。

仏教では、たとえ社会制度に適合していても、それが内面の自由や智慧を妨げるならば、執着として見なされます。

結婚という制度に頼って安心感を得ようとする心は、たとえ友情が基盤であっても、「自我の安定を確保しようとする無明な欲望」である可能性があるのです。

「友達」ではなぜダメなのか?形式に囚われる心
友情結婚の本質が精神的な絆であるならば、なぜ籍を入れる必要があるのか。その問いは、「形式にとらわれてはいないか?」という仏教の根本的な問題意識と重なります。

禅宗などでは特に、「形にとらわれること」を**「色即是空」に反する迷いと見なします。

本当に信頼し合い、共に生きたいと願うならば、それは言葉も契約も超えて成立するはずです。戸籍への登録は、ある意味で社会の承認を求める行為**であり、それは仏教が説く「外に拠らず、法に拠れ」という精神からは逸れる可能性があります。

それでも共に生きる意味は?

とはいえ、仏教は一切の関係性を否定しているわけではありません。

例えば『大般涅槃経』では、善き友(善知識)と共に歩むことが「仏道修行のすべてである」とすら言われています。ここで重要なのは、「誰と共に生きるか」ではなく、「その関係が煩悩を増すのか、減らすのか」という視点です。

つまり、もし友情結婚が

執着や恐れからではなく、

慈悲・信頼・無私の心から出発していて、

互いの修行や智慧を助け合う関係であるならば、

仏教的にはそれは「煩悩」ではなく「善縁」と捉えることも可能です。

友情結婚は「無明」か「方便」か?

ご指摘のように、「友情結婚」は

一人であることへの恐れ

社会的孤立への不安

法制度への依存という動機によって成り立つ場合、その根底にはやはり「煩悩」や「無明」があると仏教的には見られるでしょう。

しかし、もしそれが、自我の安定のためではなく、相手への慈しみから生まれ、執着ではなく自由の表現として成立し、欲望ではなく共生・修行の手段として選ばれるならば、それは「方便(Up?ya)」、すなわち智慧によって苦しみを和らげるための、世俗における柔軟な実践とみなすこともできるのです。

みなさんは、いかが思われますか。「友情結婚」。


友情結婚という選択 幸せな家庭を築くための4つのステップ – 小川祐樹

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