
東京と横浜。この二大都市を結ぶ大動脈のちょうど中間に位置する「大森」は、多くの人々にとって、京浜東北線の車窓から、あるいは第一京浜の信号待ちで漫然と眺めるだけの「地味な通過点」に過ぎないかもしれません。
しかし、そのありふれた日常の皮を一枚めくれば、そこには教科書的な記述を遥かに凌駕する、重層的でドラマチックな記憶が埋まっています。
一歩足を踏み入れれば、そこは知られざる「異界」への入り口。かつてこの地には、世界を驚かせた発見の衝撃があり、戦争の過酷な沈黙が支配し、そして時代の最先端をゆく文化人たちが集うサロンの熱気が満ちていました。
今回は、単なる街歩きでは決して辿り着けない、大森という土地に刻まれた濃密な時間の断片を、都市歴史探訪家の視点で紐解いていきましょう。
世界を揺るがした貝塚は「鉄道の車窓」から見つかった
今日の情報源です。
日本考古学の聖地としてあまりにも有名な「大森貝塚」。この発見のエピソードには、明治という時代の幕開けを象徴するような、鮮やかな「近代の皮肉」が潜んでいます。
1877年(明治10年)6月20日。アメリカの動物学者エドワード・モースは、横浜に到着してからわずか数日後、新橋へと向かう列車の窓からこの遺跡を直感的に見つけ出しました。
驚くべきは、その舞台装置です。当時、日本初の鉄道が開業してからわずか5年。明治政府が威信をかけて推進した国家プロジェクトの象徴である「蒸気機関車」が、図らずも数千年前の古代の痕跡を暴き出すタイムマシンの役割を果たしたのです。
文明開化の轟音が、地中に眠る縄文の静寂を揺り起こした瞬間でした。
モースは新橋へ向かう列車に揺られていました。大森駅を過ぎた頃、切り通しの崖に走る鮮烈な白い帯が彼の目を射抜きます。学者の直感でそれが数千年の時を刻む貝塚だと確信したのです。
近代化の象徴である鉄道が、その建設過程で地層を剥き出しにし、学者の視線をそこに誘導した――。
大森駅が1876年に開業した翌年のこの出来事は、まさに新時代のスピード感が古代史の扉をこじ開けた、歴史的な巡り合わせと言えるでしょう。
「平和島」の名の由来:負の記憶を上書きするための祈り
現在はボートレースの歓声が響き、巨大な物流拠点がひしめく「平和島」。このあまりに平穏な響きを持つ人工島には、かつて隔離された場所ゆえの「負の記憶」が刻まれていました。
1939年(昭和14年)、東京港の浚渫工事で出た土砂によって生まれたこの島は、陸地と一本の木橋で繋がるだけの孤独な土地でした。
第二次世界大戦中、ここには連合国軍の捕虜収容所が置かれ、多くの人々が飢えと過酷な労働に喘いでいました。
さらに戦後、歴史は残酷な反転を見せます。かつての捕虜収容所は一転して、東條英機ら「A級戦犯」が巣鴨プリズンへ移送されるまでの約2ヶ月半、彼らを繋ぎ止める「地獄の先般収容所」へと姿を変えたのです。
なぜ、この地に「平和」という名がつけられたのか。それは、この場所が背負った凄惨な歴史を塗り替えようとする、戦後日本による必死の祈りでもありました。
平和島は忌まわしい捕虜収容所の歴史や敗戦の苦い歴史を塗り替えるために名付けられた名称だったわけです。平和観音の由来を見ると、そこが捕虜収容所であったことがしっかりと記されています。
「平和」という文字は、単なる美称ではありません。それは、地面に染み込んだ歴史の痛みを、新しい時代の希望で覆い隠そうとした、この街なりの「記憶の上書き」だったのです。
あの「アサヒスーパードライ」はここから生まれた
大森の産業史を語る上で、避けては通れない伝説があります。かつて東口側の海沿いに威容を誇った「朝日ビール東京大森工場」です。
ここは、日本の飲料史を塗り替えた「アサヒスーパードライ」が産声を上げた聖地でした。
かつての工場屋上にはビアガーデンがあり、潮風に吹かれながら出来立てのビールを楽しむ人々で賑わっていました。
ホップの香りと人々の歓声が混じり合う、戦後復興と高度成長の象徴的な風景。しかし時代の波とともに、工場は神奈川県南足柄へと移転し、その熱気は150トンの湧出量を誇る天然温泉や、近代的で清潔な「イトーヨーカドー大森店」の明るい照明の下へと消えていきました。
かつての醸造の熱気と喧騒は、今は消毒の行き届いたスーパーの静かな利便性の中に溶け込んでいます。しかし、かつてここが「喉を潤す革命」の最前線であったという記憶は、今も土地の底に澱(おり)のように沈んでいるのです。
夏目漱石や小津安二郎が描いた「大森」の艶やかな顔
かつての大森は、東京屈指の保養地であり、また官能的な夜を孕んだ花街としても知られていました。
全盛期には800人近い芸者が在籍した「大森新地」は、都心から最も近いリゾート地として、文士たちの創造力を刺激する場所だったのです。
夏目漱石の『虞美人草』では、大森は男女が忍び合い、外堀を埋められる「ハニー・トラップ」の舞台として描かれました。
また、小津安二郎監督の映画『早春』では、不倫関係にある男女が明かりのちらつく旅館で一夜を過ごす、どこか危うく、どこか汚れた、しかし抗いがたい魅力を持つ街として登場します。
この街が背負った最も複雑な役割は、終戦直後の1945年8月27日に訪れました。銀座や新宿ではなく、ここ大森の「小町園」に、占領軍のための特殊慰安施設「RAA」第1号が設置されたのです。
そこから都内へなだれ込んでくる兵士たちを水際で食い止める防波堤が必要だと考えられたのです。
厚木や横浜から都心へ向かう進駐軍を、都心の手前で食い止める「防波堤」――。政府によるこの冷徹な地政学的判断によって、大森の華やかな遊興インフラは、占領軍への接待という過酷な任務へと転用されました。
華やかな花街の記憶の裏側には、国家の盾とされた女性たちの痛切な歴史が刻まれていることを、私たちは忘れてはなりません。
また、大森と言えば海苔養殖が有名で、「浅草海苔」のブランドで売り出され、今も旧東海道大森宿があったあたりは「美原通り」といい、海苔の販売店が何件も並んでいます。
高台のサロンと崖下のカオス:山王が持つ「光と影」のコントラスト
大森という街の真骨頂は、駅を境にして現れる「光と影」の劇的な対比にあります。
西口に広がる「山王」の高台は、古くから特権階級に愛された貴族的な場所でした。
1923年の関東大震災でも強固な地盤が街を守り、避難してきた文化人たちによってハイソな「文士村」が形成されました。
「ジャーマン通り」という名の由来となったドイツ人学校や、日本初のテニスクラブ。そこには、西洋の貴族文化がそのまま持ち込まれたような、超一流の社交場がありました。
中でも、かつて山王3丁目に存在した「望翠楼ホテル」は、文学史の交差点とも言える場所です。
川端康成や萩原朔太郎らが夜な夜な文学論を戦わせる中、1918年には当時27歳だったウクライナ生まれの天才作曲家、セルゲイ・プロコフィエフも米国へ渡る途中に11日間滞在しました。彼がこの地で見た景色は、一体どのようなものだったのでしょうか。
しかし、その高貴なサロンと背中合わせに存在するのが、通称「地獄谷」と呼ばれる山王小路飲食店街です。
線路沿いの急勾配な階段を降りれば、そこは戦後の闇市をルーツとする迷宮。
頭上を走る京浜東北線の轟音が響き、錆びた途端屋根と複雑に絡み合う電線が空を覆います。酔っ払うと這い上がれなくなるという、すり鉢状のくぼ地に密集する40軒ほどの小さなスナック。
山王の高貴な光と、崖下の泥臭い影。この一歩で世界が反転するような濃密なコントラストこそが、大森という街を「ただの通過点」から、逃れがたい魅力を持つ「迷宮」へと変えているのです。
大田区の「大」に込められた記憶
1947年、大森区と蒲田区が合併して誕生した「大田区」。その一文字目に「大」の字を据えたのは、かつて独立した区として存在し、幾層もの歴史を積み重ねてきた大森の誇りの表れでもあります。
モースが見つけた白い帯、捕虜収容所の沈黙、ビアガーデンで弾ける泡、そしてプロコフィエフが聴いたであろう潮騒。
次にあなたが大森を通過するとき、あるいは駅のホームに降り立つとき、その足元に眠る物語に耳を澄ませてみてください。
一見地味に見えるその景色は、実は東京で最も「濃い」記憶を抱えた、壮大な歴史の劇場なのですから。
大田区の法則 (Linda BOOKS!) – 大田区の法則研究委員会
