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例の件で書類送検されたことで、田久保真希前伊東市長のニユースがまたネットで賑わっています。私が気になるのはその報道の仕方です。

例の件で書類送検されたことで、田久保真希前伊東市長のニユースがまたネットで賑わっています。私が気になるのはその報道の仕方です。

例の件で書類送検されたことで、田久保真希前伊東市長のニユースがまたネットで賑わっています。私が気になるのはその報道の仕方です。タイトルや本文には、やたら「強メンタル」という言葉を使いますが、本当に精神が強い人なら、こんなブザマな展開になるのでしょうか。

本当に「メンタルが強い人」なら、厳しい状況でも正直に話して過ちを認め、さらに償う事を自ら選択出来る人のはずです。

田久保前市長は、それとは180度違います。

むしろ「弱い」からこそ、自分の過ちの現実と向き合えないのではないでしょうか。

にもかかわらず、マスコミが、たとえ皮肉であろうが「強メンタル」などと、ともすれば積極的な意味を持つような表現を使ってしまったら、

平気で嘘をつき、ひとさまを困らせたり傷つけたりする人⇒強い人(すごい人)

などという、履き違えた考え方が世の中にはびこってしまうように思います。

「卒業した」という自覚(錯覚)はありえないだろう

今日の情報源です。


東洋大学の進級と卒業の基準を、ChatGTP5.2に尋ねたところ、以下の回答がありました。

多くの学部では、次のような条件を満たす必要があります。

一定以上の単位を修得していること
1年次 → 2年次に進級:おおむね 30単位前後 の修得が必要。
2年次 → 3年次に進級:60単位前後。
3年次 → 4年次に進級:90単位前後。
(学部により上限・下限は異なりますが、前市長が在籍した経済学部は、このルールのようです)
必修科目を落としていないこと
各学年で指定された「必修科目」を未修得のままだと、進級できない場合があります。
特に語学や基礎科目が対象になりやすいです。
成績基準の充足
不合格科目(「F」評価)が多すぎる場合、進級停止になることもあります。
学則・履修要覧に基づく特定ルール
例えば、特定の科目の合格が上位科目の履修条件になるなどの「科目間の関係」もあります。

ということで、68単位しか認定されていない田久保前市長は、このルールによれば、卒業どころか4年にも上がっていないことがわかります。

それどころか、「1年次必修科目を全て修得していること」が条件ですから、ここで積み残しがあると、実は2年生にすらなっていない可能性もあります。

当然、卒論かそれに準ずる課題研究レポートなども書けませんから、本人が、卒業を自覚(錯覚)できる根拠がありません。

何より自分の成績(単位取得状況)がわからないはずはないので、田久保市長の「卒業したと思っていた」との言い分は、もちろん本人も内心そんなことは思っていない虚偽発言による開き直りは明白です。

だって、普通、学生が、自分が履修した科目の成績はどうだったのか(単位取得はできたのか)は、最大の関心事でしょう。

結論として、善意に見て3年生で除籍、最悪1年生で除籍としか解釈のしようがないのです。

「嘘や開き直り」の3つの根拠

AI(Gemini)に、「嘘や開き直り」を行う人の心の様子をまとめてもらいました。

1. 認知の不協和
心理学には「認知の不協和」という概念があります。「自分は立派な人間だ」という自己像と、「実際には学歴を偽った」という事実が矛盾したとき、人は猛烈な不快感に襲われます

本来のメンタルなら、「事実」を受け入れ、自己像を「間違えることもある未熟な自分」へと修正します。

ところが、歪んだ「強メンタル」は 事実を捻じ曲げるか、あるいは「自分は悪くない、社会や制度が悪い」と認知を書き換えることで、不快感を解消します。

これは、程度の差こそあれ、いわゆる「自己愛の強い人」に見られる傾向です。

何者かになりたかったのに、結局何者にもなれなかった

心の底で、自分の人生をそう自覚していると思われる、中年以上の世代にありがちな「自己愛」。

自分に誇りを持つことと、自己愛が強いのは、全く正反対のパーソナリティなのです。

ですから、これは田久保前市長を特別視せず、「他山の石」にすべきことなのです。

2,「防衛機制」としての全能感
嘘や開き直りを突き通す心理の裏側には、実は「極度の脆弱さ」が隠れていることが少なくありません。

一度でも非を認めれば、これまでの地位やプライドが全て崩壊してしまうという恐怖があるため、死に物狂いで「強固な壁」を築きます。

3.社会的・倫理的「レジリエンス」との決定的な違い
現代の心理学で推奨される「レジリエンス(精神的回復力)」と、今回話題になっているような「図太さ」を比較すると、その違いが明確になります。

しばしば、関連記事で使われる「記者が絶句した」という反応は、論理的な正しさに対する敗北ではなく、「共通のルール(誠実さや客観的真実)が通じない相手への無力感」です。

本来、対話は「共通の真実」という土俵の上で行われます。しかし、その土俵自体を無視して「私はこう信じている、だから正しい」と突き進む力は、一種の「倫理的な無敵状態」を作り出します。これが、世間が皮肉を込めて呼ぶ「強メンタル」の正体です。

歪んだ「強メンタル」が権力と結びつくメカニズム

「恥の文化」が機能不全を起こし、歪んだ「強メンタル」が権力と結びつくメカニズムを、社会学・歴史学的視点から深掘りします。

1. 「恥の文化」から「無敵の個人」へ
ルース・ベネディクトが提唱した「恥の文化」は、「世間(他者)の目」を内面的な規律としていました。

しかし、現代社会ではこの構造が二極化しています。

かつての「世間」は、共通の道徳観を持っていましたが、現在は価値観が細分化されました。

そのため、「自分の支持者(身内)」さえ納得させれば、外側からの批判は「敵の攻撃」として処理できてしまいます。

現代は一度「恥」を認め、社会的地位を失うと再起が難しい(セーフティネットの欠如)社会です。

そのため、生存戦略として「死んでも認めない」という極端な防衛本能が、かつての美徳(潔さ)を凌駕してしまっています。

2. 権力と「ポスト真実(Post-truth)」の結合
個人の「開き直り」が権力と結びつくと、客観的事実よりも、「声の大きさ」や「物語の整合性」が優先されるようになります。

権力を持つ者が「嘘」を突き通すと、周囲の人間(忖度する側)は、それが嘘だと分かっていても「権力者がそう言っている」という事実を優先せざるを得なくなります。

「正しいから勝つ」のではなく、「勝ち続けている(平然としている)から正しいはずだ」という錯覚を周囲に与えます。

これが組織内で、「この人についていけば突破できる」という誤ったカリスマ性(強メンタルへの誤認)を生んでしまうのです。

3. 日本社会における「形式主義」の弊害
日本社会には、内容(実質)よりも形式や手続きを重んじる傾向があります。

田久保氏のケースのように、「説明責任を果たしている」という形式(会見を開く、言葉を発する)さえ整えていれば、その中身がどれほど支離滅裂でも、行政上の手続きを止める決定打になりにくいという制度上の弱点があります。

記者が絶句するのは、相手が「論理」というルールを捨て、単なる「音」としての言葉を発しているからです。これは、ヘーゲルの言う弁証法における「精神」の対話ではなく、単なる物理的な抵抗に退行している状態と言えるかもしれません。

4. なぜ「開き直り」が目立つのか(社会の劣化か、進化か)
かつての日本には「武士道」や「恥をさらすなら死を選ぶ」といった極端な美学があり、それが権力への抑止力として機能していた側面もあります。

しかし、現在は「厚顔無恥こそが生存に有利」という、ある種の適者生存が働いています。

炎上しても平気な顔をして発信し続ける人が注目(インプレッション)を集め、それが利益に直結する構造があります。

「恥を知る人」が損をし、「恥を捨てた人」が利を得る社会構造が、個人の「強メンタル(図太さ)」を助長しているのです。

ですから、これは田久保前市長の孤発的な問題ではなく、実は、誰がどの場面においてでも、あるかもしれない危機と言えるのです。

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