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新田恵利さんが92歳の母親介護について「認知症で在宅介護の母に怒りを覚えて……それでも喜びと充実感がある」と語っている

新田恵利さんが92歳の母親介護について「認知症で在宅介護の母に怒りを覚えて……それでも喜びと充実感がある」と語っている

新田恵利さんが、92歳の母親介護継続中について「認知症で在宅介護の母に怒りを覚えて……それでも喜びと充実感がある」と語っている週刊誌記事が話題になっています。親の介護は在宅か施設か、というテーマについて、「在宅派」からの意見を述べています。

おニャン子クラブの初期メンバーも老親介護に

ネット上に発表されたのは、1/2(土) 16:05付の『NEWSポストセブン』です。

7年前に骨折で入院している時に「せん妄(幻覚や錯覚)」の症状が出たり、リハビリもきちんと実施されていなかったりしたので退院させたものの、そこから要介護4に認定された寝たきりの母の介護が始まったといいます。

その後、要介護3に戻り、デイサービスにも行ける、トイレも行けるようになっていたのが、またしても骨折。

今度は要介護5に進み、認知症も進行してきて完全に寝たきりになってしまったそうです。

介護は、一生懸命にやっているのに、それが報われない精神的な負担が大きくなっていったとか。

「ですが、やっぱり毎日一緒に生活していると、調子が良くなった時には一緒に喜べるし、悪くなっていく時もずっと自分の目で見ているので、ある意味“腹をくくる”こともできる。在宅介護することで怒りを覚えてしまうこともありますが、母が感謝してくれることもあるので、喜びや充実感を感じています。」と結んでいます。

これが、まとめ記事のOGPです。


新田恵利さんと言えば、私はおニャン子クラブ25周年のときに、書籍を上梓しました。


おニャン子クラブ&ソロデビュー レコジャケOTAKARAファイル – 草野 直樹

国生さゆりのプロ根性もいいが、自分は新田恵利派かも、というようなことを書いた記憶があるのですが、著者は私情を挟みすぎ、というレビューをあちこちで見かけたので、ああ、おニャン子クラブというのは、何年経ってもマニアの思い入れが強いんだなあと思ったものです。

『おニャン子クラブ&ソロデビュー・レコジャケOTAKARAファイル』(草野直樹著、鹿砦社)はグループ結成25周年目の解説本
『おニャン子クラブ&ソロデビュー・レコジャケOTAKARAファイル』(草野直樹著、鹿砦社)はグループ結成25周年に詳細な解説で振り返るファン待望の書です。1980年代後半、2年5ヶ月の活躍で芸能史に時代を築き、現在のAKB48の原型となったグループです。

本を書くぐらいですから、私も『夕やけニャンニャン』は毎日録画鑑賞していましたし、関連書籍もいまだに持っています。

当時、写真雑誌で、高校生の制服を着た彼女の記事なども見たことがあるので、その人が親の介護か、という感慨も深いものがあります。

それにしても、昔は芸能人は夢を売る存在なので、「貧病争」は喧伝しないとされていたのですが、最近ではむしろ積極的に伝えられるようになりました。

時代は変わったものですね。

それはともかくとして、Web掲示板は、記事の対象者を叩きまくるパターンがお約束なのですが、親の介護の問題に限って言うと、話のわかる真面目なコメントの割合が増えます。

それだけ、自分のこととして抱えている、もしくは過去に経験した人が多いんでしょうね。

それでも、まれに「安楽死(法案)はよ」とか、「てめえが赤ちゃんのときは誰がおむつ換えてたんだよ」とか、わかっちゃいないコメントもないわけではありません。

それらにマジレスしましょう。

だから、単純に「安楽死」とはならない

介護していた親が亡くなってホッとした、という人もいますが、それでも「安楽死(法案)はよ」は、私の意見としては違うと思います。

生きとし生けるものは生命ある限り……という哲学的なものだけでなく、そもそも認知症の親を介護することには介護する人にとっても人生の意味付けが可能だからです。

介護する人もされる人も、事情も心境も様々なので一概には言えませんが、本気で「死ねばいい」と思うのだったら、最初から介護はせず、独居の末見殺しにするんじゃないですか。

そうしないということは、「早く死ね」とはまた別の感情を、親に対して抱いているのだと私は見ています。

介護しても感謝されないことで腹がたち、「こいつのために人生なんで振り回されなければならないんだ」と思いながらも、介護される親がひとたび体調を崩して体が弱り「もしや」となると、「この前は悪いことを考えちゃったな」なんて後悔するのではないでしょうか。

どんな親でも親は親ですから、そんなに単純に見捨てられるものではないですよね。

私は、特に認知症ならなおのこと、そして毒親ならさらになおのこと、親の介護こそ親との別れについて心の整理をできる大切な時間だと考えています。

もし、あなたの親が突然亡くなったらどうでしょう。

やはり、突然であるなら喪失感はあると思うのです。

それが、認知症になって、介護が報われない親の嫌な面に耐えながらお世話する時間を持つことで、「この親はこういう親で、自分はこの親に育てられたのだ」と親子関係を是々非々で振り返り、「自分は、こんなふうになった親でも十分お世話して送り出すのだ」と、気持ちの整理をつけることができるのではないでしょうか。

認知症になって、親が壊れていく、というような表現がありますよね。

私はそうは思いません。

認知症のなせることとはいえるかもしれませんが、その言動はその人の人格由来だと思います。

人間なんて勝手なものです。

介護してもらっても平気で悪態をつくのは、その人の本性なのです。

それは、欲も得もなくなるからです。

社会参加しているときは、打算や思惑があるから、他者にお世辞を言ったり、礼儀正しくしたりするのです。

もう自分には先がない、何も望まないとなれば、他者に気を使う必要はなくなります。

ですから、認知症によって「壊れて」身勝手になるのではなく、「欲も得もなくなる」から身勝手になるのです。

そうした本性丸出しの認知症の介護をしながら、親の飾りのないナマの人格と向き合うことで、あの世に送り出す心の準備やけじめがつくのではないか、認知症の介護とはそういう時間ではないかと私は思います。

安楽死などさせたら、そういうことを考え経験する時間がなくなってしまうでしょう。

といっても、絶対にどんな事があっても自分で介護せよ、とも思いません。

もちろん、特養などの施設が使えるのなら使えばいいし、それがむずかしくても、デイサービス、ショートステイなどは積極的に使うべきです。

私は、たとえば介護でつぶれた清水由貴子さんの生き様を、批判や非難はしませんが、私自身は賛成しません。

それは介護する人だけでなく、される人にとって何がいちばん良いかを、たぶん真正面から考えていない自己愛、自己陶酔の介護である可能性が高いからです。

毒親を毒親として総括することは悪いことではない

「てめえが赤ちゃんのときは誰がおむつ換えてたんだよ」というコメントが、上記OGPにはありました。

だから、子は自分を犠牲にしても最期まで面倒みろということでしょうね。

そのように、親を絶対的な立場に置けという意見は必ずありますね。

我が国には、未だに家制度の因習を事実上残す目的で、子は親に無条件で従う奴隷であることを示す法律(民法第818条)があります。

たとえば、親であることをタテに、子に特定の選択や価値観を強要する毒親は、今の日本では虐待など違法行為が公然としたものでない限り「合法」になってしまうのです。

それが、親が絶対などという、インチキ道徳を生み出す原因だと思います。

そのインチキ道徳のおかげで、たとえ毒親でも、いえ毒親だからこそ、子は自分が尽くし足りないのではないかと、自分の人生を犠牲にして自分を追い詰めて介護してしまうのです。

「てめえ……」にマジレスすれば、以前書いたように、親は子に頼まれたからその子を生んだわけではなく、自分が子供がほしいから勝手に作っただけでしょう。

いいですか、親は親の意思で子を生んだのです。

毒親に限って「ご先祖がいたからこそ自分がいるのだから先祖に感謝しろ」「先祖を供養しないとバチが当たる」などと言う
「先祖あっての自分。だから感謝しろ」とよくいいます。「先祖を供養するなど大事にしないとバチが当たる」ともいいます。しかし、それは結局、「目上」の人を絶対化するための合理的根拠のない方便であり、子にそんなことを教える親は毒親の始まりと思います。

子に対しては、親のほうが「生まれてくれてありがとう」であり、子に対して恩着せがましく、苦労して育ててやっただの、親孝行しろだのと言うのは筋違いも甚だしい。

自分が勝手に生んだのですから、責任持って育てるのは当たり前の話です。

ですから、たとえば毒親に対して、子だからといって人生を犠牲にしてまで介護しなければならないと、自分を追い込む必要はないと思います。(もちろん自分の意志でそうしたいのならそれは構いません)

毒親であったことが許せないから面倒見たくない、という気持ちがあるなら、できないことを無理にする必要はないと思います。

それは恥ずべきではないし、むしろ親のほうが子に見限られたオノレの不明を恥じるべきです。

新田恵利さんは、それなりに意義を見出して在宅介護をされているようですが、残念ながら毒親の面倒なんか見たくないと思っている人も、施設に預けることができず不承不承で在宅介護している場合もあるでしょう。

大変だと思いますが、そのような方は、先程書いたように、悪態をつく毒親の介護をしながら、自分の人生にとって親とは何だったのかを改めて振り返る時間にすると良いと思います。

親を絶対視することから卒業して、容赦なく自分の親を是々非々で総括しましょう。

そして、金輪際「毒の連鎖」はしないようにしよう、とかたく心に誓い、自分自身の生き様に、そして何より親としてお子さんに対しては、絶対に自分の親の愚を繰り返さないようにすることです。

以上、新田恵利さんが92歳の母親介護について「認知症で在宅介護の母に怒りを覚えて……それでも喜びと充実感がある」と語っている、でした。

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