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仏教(真言宗)の住職が錫杖(真言宗の厄除け道具)と木魚で「ジングル・ベル」を「演奏」し日本独特の宗教融和をユーモラスに描く

仏教(真言宗)の住職が錫杖(真言宗の厄除け道具)と木魚で「ジングル・ベル」を「演奏」し日本独特の宗教融和をユーモラスに描く

仏教(真言宗)の住職インタビュー動画がバズっています。錫杖(真言宗の厄除け道具)と木魚で「ジングル・ベル」を「演奏」し、日本独特の宗教融和をユーモラスに描くことで、宗教対立を批判する、2025年4月の日本テレビ『月曜から夜ふかし』で放送された動画の引用です。

「仏教の教えって、物事には全て多面性がある。色即是空といって、1つの側面だけから見てはいけない。(だからキリスト教の行事とも調和する)」

そう言って、冒頭のように、仏教の道具で「ジングル・ベル」の「演奏」を始める住職の動画です。

私から見ると、この住職は、自明のことを話しているに過ぎないのですが、一般的には新鮮だったらしく、ポストはバズって、「投稿後24時間で74万ビュー超え、国内外で共感を集め、日本人の寛容さを象徴する反響を生む一方、イスラム圏への皮肉めいたリプライも見られる。」(Grok)状態になっています。

日本の宗教のゆるさに感動するコメントが続いているのです。

宗教戦争の真実

今日の情報源です。


宗教戦争というと、何か教義の正しさのみを争うため戦争を行っているように思われがちですが、それは多くの人が誤解していることだと思います。

AIのQWENは、「宗教戦争の背景は「教義の正しさ」をめぐる争いだけではない」として、

政治的権力: 統治の正当性を宗教に求めたり、宗教勢力と政治勢力が結びついたりすること
経済的・領土的利害: 土地、資源、貿易ルートを巡る争いに宗教的な大義名分が付与されること
民族的・文化的アイデンティティ: 「我々」と「彼ら」を区別する境界線として宗教が機能すること

などを挙げています。

例えば、ヨーロッパの三十年戦争は、「カトリック対プロテスタント」という宗教対立の側面を持ちつつも、実は、その本質は、ハプスブルク家 VS フランスなど、欧州の覇権を巡る政治闘争でした。

何を言っているかというと、要するに、どんな戦争も、欲得による覇権の争いに変わりはない

ただ、宗教という「心の拠り所」を大義にすることで、国民の求心力を高める役割を果たしているということです。

つまり、政治が戦争の口実に宗教を利用しているわけです。

ですから、政教一致こそが、国家に戦争の大義を与え、宗教を他国への攻撃的なツールに使えるということです。

かつて、日本は、政治権力と国家神道が結びついたから戦争に突き進みました。

神道自体が、戦争を求めているわけではないのに……

昭和天皇以来、天皇が三代に渡って靖国参拝をやめているのは、そういう事情があります。

ここは、是非、知っておいてください。

仏教の「ゆるさ」の真実

仏教は、緩いと言うより、絶対というものを認めない世界観があります。

古代のインドは、輪廻転生という世界観があったのですが、仏教はそれについて、神様もその一つの階層(天道)に過ぎないとしました。

つまり、人間が善い行いで天道に行けることがあるが、そこも永遠ではなく、また人間に生まれ変わることがある、という考え方です。

つまり、仏教の世界観の最大の特徴は、神様の絶対性を想定していないことです

仏教は、この世は救ってくれる創造主もいない、過去も他人も変えられない、だから生きづらいときは、自分で自分の心を変える(煩悩を捨てる)しかないという営みです。

ですから、そもそも他の宗教と、根本的にバッティングするものではないのです。

その昔、古代インドを武力統一したアショーカ王は、心を入れ替えて仏教の在家信者になりましたが、国民が他の宗教を信仰することを妨げませんでした。

中国の仏教は、祖霊信仰という民間信仰や、儒教と融合されています。

「お盆」という行事は、そこから生まれました。

日本の仏教も、神仏習合と言って、神道と共存していました。

仏教は、「自分で自分の心を変える宗教」ですから、あくまでも自分で完結するため、「神様の差配を信じる宗教」とは、狙っているところが違うので、他宗教の行事を排除するよりも、「共存・調和」を重んじる傾向が根強く残っているのです。

ですから、伝統仏教諸宗派の中で、住職・僧侶がクリスマスを祝ったり、神社に初詣したりすることを禁じているのは、日蓮正宗ぐらいだと思います。※日蓮宗と日蓮正宗は違います。

仏教を標榜しながら、鳥居をくぐらないのは、独自に経典を解釈したりでっちあげたりしている、新興宗教やカルト教団です。

本来の仏教(お釈迦様の仏教)は、法罰だの仏罰だのなんてありませんからご安心を、

神道モダニズム

神道については、詳しくありませんが、神道には、「これはこういうものだ」と教える経典自体がありません。

経典がないということは、他宗教と衝突する根拠もありません。

余談ですが、私は、特定の神社と付き合いはないし、初詣もしないし、御朱印やお守りも一切買いませんが、鳥居は一礼してくぐりますし、拝んだあとは後ろ姿を見せずそのまま後退りしてさがりますし、食事は箸を「結界」として置いて、二拍手してからいただきます。

信仰というより、なんとなくダラダラ日々の営みを消化するのではなく、生活にメリハリをつけるためです。

儀式をすると、なんというか、パソコンを再起動するような、心にリフレッシュ感があるのです。

これは信仰なき心のリフレッシュを狙う、神道モダニズム(仏教的信仰抜きのヨガみたいなもの)ですね。

みなさんも、生活のメリハリに、「儀式」を試してみませんか。


『鬼滅の刃』で学ぶ はじめての仏教 – 松﨑 智海, 海老塚 久蔵, Audible Studios

眠れなくなるほど面白い 図解 神道 – 渋谷申博

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