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「うちは塾には行かせられない」。そう言いながら子どもの成績表を見つめる保護者は、日本全国に少なくありません。

「うちは塾には行かせられない」。そう言いながら子どもの成績表を見つめる保護者は、日本全国に少なくありません。

「うちは塾には行かせられない」。そう言いながら子どもの成績表を見つめる保護者は、日本全国に少なくありません。学習塾は今や多くの子どもにとって「当たり前の選択肢」になっていますが、それが当たり前でない家庭も確実に存在します。

そして、この「行ける家庭」と「行けない家庭」の差が、学力の差へと静かに積み重なっていく構造が、データから浮かび上がっています。

経済格差は、子の可能性まで変えてしまうということです。

以前、『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(マイケル・サンデル著、鬼澤忍訳、早川書房)という書籍をご紹介しました。

本書は、「実力社会」というけど、それって本当にその人の「実力」なのか?という話です。

能力主義って言葉は、昔の、士農工商の身分社会に比べたら、自由で開かれている感じしますよね。

結果さえ出せば、実績さえ残せば評価される。

貧乏で学校を出ていない親に生まれた子でも、試験に受かれば上の学校に行けて、博士の学位を取ったり官僚になったりできる。

……理屈ではね。

ただ、それが実際にそうなっているか。いないんです。

貧乏ならそれどころではないから。

結局、どんな親に生まれるかで、人生は大きく変わってしまうという話です。

幼稚園から高校まで596万円、その内訳に格差が潜む

さて、文部科学省が2024年12月に公表した、2023年度「子供の学習費調査」によると、幼稚園から高等学校(全日制)卒業までの15年間の学習費総額は、すべて公立の場合が596万円すべて私立の場合が1,976万円でした。

注目すべきは、その内訳です。

学校外活動費、とりわけ「学習塾費」の格差が際立っています。

塾に通っている場合の年間平均額は、公立中学校で約34万9千円、公立高等学校(全日制)で約38万2千円に上ります。

これは、月換算で約3万円前後。決して小さな額ではありません。

あくまで学費が3万円で、参考書とかは別ですからね。

低所得世帯にとっては、食費や光熱費の削減を迫られるレベルの支出です。

「通えない」子どもの背景にある数字

通塾率は、世帯収入と強く連動しています。

政府統計の21世紀出生児縦断調査のデータを見ると、父母の総収入が高い世帯ほど学習塾の利用率が高く、低収入世帯では「学習塾等を利用していない」割合が顕著に高くなっています。

地域格差も顕著です。

都市部では中学3年生の通塾率が高い一方、東北地方や九州地方の多くの県では通塾率が低く、地方では平均所得が低く塾の費用が家計に大きな負担となるため、通塾率が低くなっています。

つまり「塾に行けない」子どもは、経済的に苦しい家庭に集中しており、そうした家庭は地方に多い、という二重の不利が重なっています。

学習塾費の「ゼロ円世帯」と「40万円以上世帯」の分断

さらに深刻なのが、塾代支出の「二極化」です。

学習塾費を支出している場合、私立小学校、公立・私立中学校、公立・私立高等学校(全日制)で「40万円以上」がそれぞれ最も高くなっています。

一方で、塾代がゼロの世帯も多数存在します。「行かせたくても行かせられない」家庭と「年間40万円以上をかけられる」家庭とが同じ地域、同じ学校に共存している。この分断が、学力格差の温床になっています。

文部科学省はこの調査結果をもとに、家庭の経済事情に左右されることなく、誰もが希望する質の高い教育を受けられるよう、教育に関する国の諸施策を検討していく方針としていますが、現実の格差は年々広がっています。

学力格差は「努力の差」ではなく「環境の差」

塾に行けない子どもが学力で遅れをとるのは、その子の努力が足りないからではありません。

放課後の時間に、授業の予習・復習・受験対策を個別指導で受けられる子どもと、そうでない子どもとでは、同じ「学校の授業だけ」という条件でも土台が違います。

塾では、学校の授業よりも先取りした内容を教えることが珍しくありません。

特に中学受験を視野に入れた小学生向けの進学塾では、小学4年生から本格的なカリキュラムが始まります。

その段階で、「塾に行く子」と「行かない子」の間には、すでに学習量の大きな差が生まれています。

高校受験・大学受験においても、塾での対策の有無は合否に直結しやすい。

結果として、経済力のある家庭の子どもが難関校に集まり、そこでのネットワークや情報がさらなる有利をもたらすという「格差の再生産」が起きていきます。

公教育だけでは追いつかない構造

本来、学力の基盤となるべき公教育が、なぜ塾なしでは不十分と感じられるのでしょうか。

背景には、学校の授業だけでは受験に対応しきれないという現実があります。

特に都市部の中学受験や大学入学共通テストは、学校の授業範囲を超えた対策が事実上必要とされています。

公教育の役割が「基礎の提供」にとどまり、「受験対策」は民間に委ねられてきた構造が、塾産業の拡大を支えてきました。

「学力は努力次第」という神話の限界


「やる気があれば塾なしでも伸びる」という言葉は、個々の事例としてはあり得ます。

しかし、社会全体で見ると、教育費をかけられる家庭の子どもが有利な環境に置かれ、そうでない子どもが不利な環境に置かれているのは、データが示す現実です。

学力格差を「個人の努力の問題」として片付けることは、格差の構造から目を背けることです。

塾に行けない子どもたちに必要なのは、叱咤激励ではなく、公的な学習支援の充実です。

「誰もが質の高い教育を受けられる社会」という理念を、制度として実現することが今、問われています。

実は、これは最近のことではなく、私が子供の頃からそうでした。1970年代からね。

格差社会は、教育を受ける機会の格差から始まっています。


教育格差 ──階層・地域・学歴 (ちくま新書) – 松岡亮二

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