
臓器移植を受けた人は、ドナーの持ってた趣味や嗜好が似てきたり、ドナーの記憶も受け継いだりするという動画がバズっています。ただし、残念ながら科学的には、「臓器移植でドナーの記憶や人格が移る」という話は確認されていません。
動画の内容は、次のようなものです。
心の中の人 https://t.co/hgIJeULHeo @FacebookWatchより
— 無明子 (@shirimochigome) March 9, 2026
ある男性に、一面識もない女性が、いきなり「結婚してください」と言ってきた。
その女性は、心臓移植の経験があるが、ドナー(臓器提供者)は男性と死別したかつての恋人だった。
「俺達、初対面ですよね」
「すみません。ハンカチで手を拭く姿を見て、やるじゃんって思っちゃって」
それは、亡くなった恋人にも確かに言われたことだった。
……という、ありがちなショートストーリーですが、snsやYouTubeを見ると、「心臓移植でドナーが乗り移る(か?)」というテーマの書き込みな動画が出てくるわ出てくるわ……。
これだけ、医学も科学も発展したこんにちでも、亡くなった人が蘇る、という夢を現代人は捨てたくないんですね。
過日、AIで亡くなった人を蘇らせる記事を書きましたが、あれはしょせん、誰でもAIが作った物とわかります。
しかし、臓器は作り物ではなく、確かに「亡くなったその人のものだった」という点が、今回の違うところです。
「ドナーの記憶が移る」という科学的証拠はない
記事にもなっています。
<話題の記事>
臓器に記憶は宿るのか?心臓移植患者の多くが体験する奇妙な性格や好みの変化https://t.co/W00YcWhs85 pic.twitter.com/vRjjNFzBw5— カラパイア (@karapaia) November 25, 2025
ただし、冒頭に書いたように、科学的にはそのようなことは証明されていません。
現在の神経科学では、記憶は脳の神経回路に保存されると考えられています。
心臓・肝臓・腎臓などの臓器には、記憶を保存する神経回路、長期記憶を作るシナプス構造などはありません。
ただ、一部の研究報告には、移植患者の約90%が何らかの性格変化を感じたとされています。
ただしこれは、「ドナーの人格が移った」わけではありません。
科学者が考えている主な理由
研究者は、次のような要因を挙げています。
1. 生死を経験した心理変化
移植患者は、長い闘病、生死の境目、新しい人生の実感などを経験することで人生観が変わり、性格が変わったと感じることがあります。
2.免疫抑制薬・薬の影響
移植後には、免疫抑制剤、ステロイド、神経系に影響する薬を大量投与します。
これらは、気分、行動、睡眠、食欲などに影響します。
3.意味づけ(心理効果)
人は、「誰かの臓器をもらった」という事実に強い意味を感じます。
すると、ドナーのことを想像し、自分の変化をドナーと結びつける心理が働きます。
これは心理学でいう確証バイアスの典型例です。
4.体の化学状態の変化
臓器は、ホルモン、代謝、神経伝達物質に影響します。
例えば、腸はセロトニンの多くを作る、心臓・腎臓はホルモンに関係などがあり、体の化学状態が変わることで、趣味や嗜好が変わることはあり得ます。
ただしこれは、「記憶が移る」こととは全く別です。
釈迦仏教も臓器乗り移り説は否定しています
そこまで否定してしまうと、「科学がそうでも、宗教ならもう少し話がわかるのではないか?」と、思う方もいるかもしれません。
しかし、意外なことに釈迦仏教は、こうした「乗り移り」の類を明確に否定しています。
釈迦仏教は、科学の唯物論に近い哲学であり、「肉体」と「精神」と「エネルギー」が分かたず一体になったときにのみ、生命は成立すると考えます。
したがって、脳死した肉体から心臓だけを取り出しても、それはもはやただのパーツであり、移植して引き続き動いたとしても、もう元の人とは無関係であるととらえます。
ちなみに、「私は宗教なんて信じない」などと啖呵を切ってる人でも、もし自分が死んだら、あの世で両親や先祖と再会できる、みたいなことをよく聞きますが、いや、そういう発想がそもそも宗教だろう※、という突っ込みとともに、釈迦仏教はそれも否定しています。※エホバの証人が、死後の世界があると言ってますよね。
だってさ、脳も目も耳も口も鼻も手も足もないのに、どうやって先祖と認識して会えるの?認知症でなくなった人は、あの世ではまた正気に戻ってるの?亡くなった幼児は、あの世でおとなになってるの?なのにわかるの?それとも永遠に子供のままなの?壮絶な事故でなくなった人は包帯巻いた姿で再会するの?
……などとマジレスすると、「野暮なこと言うな」と言い出すアンチがいるのですが、私が言いたいのは、普段は宗教をオカルトのように怪しみながら、その一方でそんなオカルトチックなことに救いを求めているのは矛盾していませんか、ということです。
2500年前の釈迦仏教のほうが、よっぽど合理的ではないか、と私は思います。
「あの世」ではなく心のなかに生き続ける
臓器移植によってドナーが「物理的」に乗り移ることはありません。
しかし、それは決して寂しい結論ではないと私は思います。
亡くなった人は、誰かの体の中で「部品」として生き続けるのではなく、その人を大切に思う人たちの「心」の中で、確実に精神として生き続けるからです。
「あの人が好きだったハンカチの使い方」を思い出し、胸が熱くなる。
その瞬間、その人の記憶は間違いなくこの世界に存在しています。
私たちが故人を忘れない限り、その人の「生」は誰かの記憶という名のバトンとして、静かに受け継がれていく。
そう、思いませんか?
