
2014年1月、まるでSFのようなニュースが世界を駆け巡りました。「外部からの刺激だけで細胞が初期化される」。若き女性研究者・小保方晴子氏が発表したこの「STAP細胞」の発見は、再生医療の常識を覆す革命として、日本中を熱狂の渦に巻き込みました。
しかし、その熱狂は数ヶ月で崩れ去ります。論文には多数の不正が認定され、科学界を揺るがす大スキャンダルへと発展したのです。
結果は皆さんご存知の通りです。論文は撤回され、共著者全員がその同意を余儀なくされました。指導的立場にあった笹井芳樹氏は自ら命を絶ち、再現検証実験は失敗に終わりました。小保方氏の研究ノートはまともなものとは言えず、早稲田大学の博士論文にも不正が見つかり博士号は取り消されました。これだけの事実が積み重なっているにも関わらず、今もなお、彼女を擁護する声が絶えません。
中には「日本がSTAP細胞を否定したから、アメリカに研究を奪われた」などという、科学の世界を少しでも知る者なら一笑に付すような説を、SNSで真顔で吹聴している人もいます。そこで今回は、この事件を比較的客観的にまとめているYouTube動画をご紹介しながら、事件の真相と、私たちがそこから何を学ぶべきかを考えてみたいと思います。
動画が描く「常識的な」事件の整理
今回紹介するのは、『【ゆっくり解説】9割が知らないSTAP細胞事件の真相』という動画です。「9割が知らない」というタイトルはややセンセーショナルですが、その中身は、知られている事実をベースに、よくまとまった常識的な内容です。動画は、客観的な事実と、事件後に残された疑問点を分けて整理してくれています。
動画では、華々しい発表から一転、論文不正疑惑が浮上し、スキャンダル、そして共同研究者の死という悲劇的な結末に至るまでの過程を追っています。その上で、全ての責任が小保方氏一人に帰せられたことへの不自然さや、STAP細胞の正体とされるES細胞の混入という「高度な細工」の真犯人が特定されていない点など、組織的な「闇」の可能性についても触れています。また、米国で後に類似の現象が報告された事例を挙げ、「外的刺激による初期化」という概念自体が、科学的に完全に否定されたわけではないことを示唆している点も興味深いところです。
「個人の責務」と「組織の闇」は分けて考える
さて、この動画の内容も踏まえ、私自身が最も考えるべきだと思うのは、「小保方氏一人に責任を押し付けてよいのか」という問いです。これについては、論文作成のプロセスにあったかもしれない「闇」の問題と、彼女個人の研究者としての資質の問題を分けて考える必要があるでしょう。
たとえ論文作成にどんな「闇」があったとしても、彼女自身の研究者としての基礎能力が備わっていなかったことは、厳然たる事実です。学生時代の博士論文にすら不正が見つかった以上、ここは否定できません。彼女の一件以降、各大学では文系も含めた学生の引用や文章表現に対して、過剰とも言えるほどの厳しい目が向けられるようになりました。その影響の大きさを考えても、彼女の責任は免れ得ないものだと言わざるを得ません。
しかし、だからこそ疑問が残るのです。STAP細胞の正体とされた「ES細胞の混入」という、ある種の「高度な細工」は、本当に彼女一人にできたのでしょうか? 当然、ES細胞を扱える限られた人間、つまり彼女よりも上位の立場にいた研究者が関与したのではないか、という推理は成り立ちます。理研や科学者コミュニティ全体に「闇」が存在した可能性は、確かに私もあり得ると思います。
この「闇」の追求は重要ですが、個人的には、そこにあまり多くの意味を見出せないのも事実です。結局のところ、科学者も生身の人間です。科学であれ、司法であれ、政治であれ、人間が関わる以上、矛盾や不正が完全にない組織など存在しないのではないでしょうか。ある意味で、どこも完璧ではない、ということです。
アメリカに研究を奪われた?という「願望論」の正体
最後に、「日本がSTAP細胞を否定したから、アメリカに研究を奪われた」という擁護派の主張について考えてみましょう。彼らが根拠として挙げるのは、STAP騒動の翌年(2015年)に、テキサス大学のボイニッツ博士らが発表した論文です。これは、負傷したマウスの骨格筋から、刺激によって初期化されたような多能性を持つ細胞(iMuSC)を発見したという内容でした。
確かにこの研究結果は、小保方氏の実験データが不正だったとしても、「刺激による初期化」というアイデアそのものが、生物学上の現象として起こり得る可能性を示唆している、と解釈できます。ただし、それは「それ以上でも、それ以下でもありません」。
まず、小保方氏の論文は撤回されていますから、法的にも学術的にも「先行研究」にはなりえません。ボイニッツ博士が、この騒動を自身の仮説を練るきっかけの一つにした可能性はあっても、それだけのことです。私たちも日常で、全く関係ない出来事から連想を得ることがあるでしょう。何より、ボイニッツ博士の研究は、「STAP細胞が実在した」という証明には、全くもって至っていません。
先の動画の解説も、この点は非常に冷静で、STAP細胞はあくまで「アイデアの先駆者になり得たかもしれない」という「可能性」や「皮肉」として紹介しているに過ぎません。これは陰謀論というより、むしろ一種の「願望論」と呼ぶのが適切でしょう。
私たちは何を事実とすべきか
これだけの事実が明らかになっているにも関わらず、「小保方氏を叩いたから研究を奪われた」とか「製薬業界が握りつぶした」といった、根拠のない陰謀論をSNSのショート動画などで鵜呑みにする人が後を絶ちません。もちろん、今回ご紹介した動画もYouTubeの一本ですから、すべてを否定しろと言っているのではありません。
大切なのは、何かセンセーショナルな情報に接した時、その場で一度立ち止まり、ファクトチェックをする習慣です。それはAIでも関連書籍でも構いません。そして、誰かを叩くためでも、逆に哀れみで擁護するためでもなく、何が事実で、どこに問題があったのか。私たちはその教訓を未来にどう活かすべきか。その視点こそが、この痛ましい事件を無駄にしないための、唯一の道なのではないでしょうか。
捏造の科学者 STAP細胞事件 (文春文庫) – 須田 桃子
