『写真集・門外不出!力道山』(流智美/佐々木徹=編集、田中和章=写真、集英社)は力道山の写真、関係者の話をまとめた書

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『写真集・門外不出!力道山』(流智美/佐々木徹=編集、田中和章=写真、集英社)は力道山の写真、関係者の話をまとめた書

『写真集・門外不出!力道山』(流智美/佐々木徹=編集、田中和章=写真、集英社)は力道山の素顔や、各試合での名場面写真、関係者のインタビューなどをまとめています。力道山の墓は、日本を支配した大物たちと池上本門寺に墓閥を築いています。

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暴漢に刺されて志半ばにして亡くなる

東京・赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」で、住吉連合系暴力団の大日本興業組員に、登山ナイフで腹を刺されたのが1963年12月8日午後11時10分ごろ。

一時は快方に向かっているとも報じられたものの、1週間後の15日に腹膜炎から腸閉塞を併発。

2度の手術の甲斐もなく亡くなりました。

死因については諸説あります。

敬子夫人によれば、『プロレスへの遺言状』(ユセフトルコ著、河出書房新社)で、長年の闘いから体中ボロボロで治療に耐えられない状態であったことを告白。

その後上梓された『夫・力道山の慟哭―没後40年 未亡人が初めて明かす衝撃秘話』(双葉社)では、「医療ミス」があったとも述べています。

そもそも力道山が、元関脇で角界経由のプロレス入りなので公称29歳のプロレスデビュー。実際にはプラス5歳(つまり34歳)ぐらいではないかといわれています。

相撲時代から体を酷使し、プロレスラーとしての晩年はかなり無理をしていたようです。

かつて、日本プロレス中継、全日本プロレス中継で解説をつとめた、元東京スポーツ記者の山田隆さんから、力道山について伺ったことがあります。。

「お客は力道山の空手チョップを見に来ていたわけですが、彼はちゃんとそれを知っていて、必ず一試合に一度は手刀を振り上げていましたよ。でも、晩年、体力が衰えてからは、ずいぶん辛そうでしたね。

当時、鈴木クンという秘書がいたんですが、彼の鞄の中には薬が何種類も入っていたようです。それでも、力道山は常に“お客さんはワシを見に来るんだ。頑張らなくちゃあな”と言っていました」

その薬が具体的に何であるかは山田隆さんも語っていない。

しかし、たとえ何であろうと、力道山が疲労や衰えをそれによって押さえ、必死になってコンディションを維持していたことだけは確かです。

『人間は、弱い……』が『やればできねえことはねえ』

『写真集・門外不出!力道山』(流智美/佐々木徹=編集、田中和章=写真、集英社)には、写真だけでなく関係者のインタビューも掲載されていますが、その一人が力道山道場の存命最古参であるマティ鈴木さんです。

マティ鈴木

マティ鈴木さんは現在アメリカ在住ですが、もともと神奈川県に生まれ、大田区の荏原高校(現日本体育大学荏原高校)野球部出身です。

しかし、高校時代からプロレスに興味があり、先輩にプロレス入りしたヒロ・マツダがいたため、人形町にあった力道山道場に通いました。

そこで、力道山には、当時行っていたアルバイトから『牛乳屋』と呼ばれて可愛がられ、入門を許されたといいます。

マティ鈴木「人間は弱いが、やればできないことはない」
マティ鈴木のロングインタビューが掲載されている、『写真集・門外不出!力道山』(集英社)を読んだ、存命の“弟子頭…

同書でマティ鈴木さんは、力道山の今際の際に語ったエピソードを紹介しています。

「63年12月8日、力道山が刺されましたよね。(中略)すぐさま私は、看護婦さんに力道山の状態を開きました。
 その時、彼女は“大丈夫ですよ”と答えつつ、力遺山がこんなことを呟いていたと教えてくれたんです」
力道山は、どんな言葉を呟いたのですか。
「たった、一言。『人間は、弱い……』
 私は力道山のイメージの問題もありますから、その看護婦さんにこのことは今後いっさい、他言無用ときつく口止めしましたけれどね」
 実に重たいですね、その言葉は。
「ええ。重たいです。その言葉は今でも私の心の奥底に深く刻まれていますね。
 それと、生前、力道山が私に『牛乳屋、お前、体が小さくて悩んでいるみたいだが、関係ねえよ。好きなんだろう? プロレスが。だったら、レスラーになれよ。人間はな、やればできねえことはねえぞ』と言ってくれましてね」

『人間は、弱い……』と『人間、やればできねえことはねえぞ』。

本来は相反するふたつの言葉ですが、どういうことでしょうか。

人間は無謬でも万能でもないが、努力は裏切らない、ということかもしれませんね。

それを肝に銘じたマティ鈴木は、現役プロレスラーのうちにアメリカに渡り、引退後は経営者として成功しました。

日本支配層の墓閥

そんな力道山も、亡くなって57年になります。

神道や仏教の宗派でも、一部では33回忌で区切り(仏教では弔い上げ)とする場合もありますが、最長でも50回忌。

歴史上の人物、「ご先祖様」ということになるわけです。

力道山の、戒名にあたる法号は大光院力道日源居士。

池上本門寺の檀家だけあって、ちゃんと日蓮宗の「日」という文字が入っています。

では、なぜ、力道山の墓が池上本門寺に建てられたのか。

現在は都営浅草線西馬込車庫になっている、隣の敷地に、力道山の自宅がありましたから、ご近所のよしみで、百田光浩と池上本門寺との付き合いはあったのだろうと思われます。

ただ、それだけでなく、生前の結びつきを示す“墓閥”ともいえるものも見ることができるのは興味深い。

力道山の墓所の隣には、江戸幕府征夷大将軍家となった徳川氏の母体松平家の墓がありますが、そこから通路を1つ挟んで、右翼のフィクサー・児玉誉士夫、その向かいには東声会会長・町井久之、さらにその奥には衆議院議員だった大野伴睦、そしてその隣には東京スボーツ会長の太刀川家の墓が並んでいます。

力道山プロレスを支えた、政治、右翼、裏社会、マスコミ関係者です。

ここに、電通の吉田秀雄、三菱電機の関義長、読売の正力松太郎らが加われば完璧になりますが、同じ読売の渡邉恒雄(ナベツネ)は、大野伴睦の代議士時代の番記者です。

私は、この墓群を見た時に思いました。

これは、真の意味で日本の支配層の墓閥なのだと。

戦後、国民の共産主義化を防ぐために、反共防波堤の娯楽(国民に難しいことを考えせない)として、日本テレビ(NTV)が誕生したことはすでに書物などで明かされていますが、それは当然、政財芸能スポーツマスコミ界の合作だったわけです。

そうした日本の政治、経済、エンタテイメント、オピニオンをコントロールした血縁関係のない関係者たちの義兄弟ぶり、そしてその支配力を子孫の代まで継承させんと願う気持ちが、近くに墓地を形成した墓群に現れているのではないかと私は思いました。

以上、『写真集・門外不出!力道山』(流智美/佐々木徹=編集、田中和章=写真、集英社)は力道山の写真、関係者の話をまとめた書、でした。

写真集・門外不出! 力道山 - 流 智美, 佐々木 徹, 田中 和章
写真集・門外不出! 力道山 – 流 智美, 佐々木 徹, 田中 和章

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