『心配学~「本当の確率」となぜずれる?~』(島崎敢著、光文社、kindle)は、心配の度合いと実際の確率がずれることを解説

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『心配学~「本当の確率」となぜずれる?~』(島崎敢著、光文社、kindle)は、心配の度合いと実際の確率がずれることを解説

『心配学~「本当の確率」となぜずれる?~』(島崎敢著、光文社、kindle)は、心配の度合いと実際の確率がずれることを解説しています。「用心するに越したことはない」ですか?でも、あらぬ心配によって本当に心配すべきことが疎かになるかもしれません。

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本当の確率と主観的な危機感との乖離

『心配学~「本当の確率」となぜずれる?~』(島崎敢著、光文社、kindle)は、本当の確率と主観的な危機感との乖離について、その事例や、なぜそうなるのか、そうならないためにはどうしたらいいか、といったことが書かれています。

たとえば、飛行機が落ちることを心配する人もいるけれど、実は車に乗って空港から自宅へ帰る間のほうが死ぬ確率は何倍も高い、というように……。

もちろん、現在の最大の心配事はコロナですが、世の中にはコロナよりも確率も高く直接命を脅かすリスクはほかにももっとあります。

コロナの感染対策はしっかり行うべきですが、だからといって、そこばかりに気持ちが集中してしまい、ほかのことをおろそかにしてもいいということではない、ということです。

著者・島崎敢さんは、本書でそうした大衆の心配の仕方の非合理さを指摘しています。

本文には、たとえばテロリストは、自らの破壊活動そのものによる成果よりも、人々に「心配」をもたらすことに狙いがあると述べています。

人々の「心配」こそがテロリストの狙いです。極端な話、テロリストたちにとって、テロは未遂に終わってもいいのです。「テロが起きるかもしれない」とみんなを心配な気持ちにさせるだけで、旅行がキャンセルされたり、街や空港のセキュリティ強化をしなければならなくなったりします。精神的打撃に加えて経済的打撃も与えられるのです。

つまり、過剰な心配は機会の損失という別のリスクを発生させてしまう、ということです。

つまり、心配して何もなければそれに越したことはない、で済む話ではない場合もある、ということです。

心配が別のリスクを生む、ということです。

だからこそ、合理的な判断を超えるような過剰な心配を見なおしてみませんか、という内容です。

犯罪死亡の確率は34万分の1

島崎敢さんは、『日刊ゲンダイ』(2016年3月30日付)に掲載されていた記事で、確率から人々に「大仰な心配」をさせないためのコメントを述べています。(「無差別テロ、交通事故、感染症……心配するかどうかは理性的に計算して判断する」というタイトルの記事)

参考までにそちらからも引用します。

「世界のテロによる死者は、自爆した実行犯を含めて年間3万人余りといわれます。一方で、交通事故の死者は世界で約130万人。現実にはテロよりも交通事故で死ぬ確率の方が高いのです」

「(中略)一般的にいえば、100万分の1以上は『気にする必要のない』数字。10万分の1以上は『気に留めてもいい程度』で、1万~10万分の1以下になると『国をあげて政策を立てる必要がある』。1万分の1を切ると『性急な対策が必要で、個人レベルでもお金を出してでも避けたい』数字になります」
 。
「警察庁の統計で、犯罪死亡者数を見ると2014年で357人(他殺)。総人口を1億2000万人として計算すると、およそ34万分の1人になります」(そう考えると、日本で殺人事件の被害者になることを心配する必要はない)


具体的な数字の目安が記載されているのはいいですね。

これからは、それを参考にできます。

記事では、他の確率についても明らかにされています。

  • 隣にいる女性がAV女優である確率……400人に1人
  • シートベルト着用して運転席にいた場合の死亡率……0.15%
  • シートベルト非着用で後部席にいた場合の死亡率……0.55%
  • BSEに感染する確率(2000年初め、当時のイギリスで)……40万人に1人
  • 携帯電話を使用して脳腫瘍になる確率(年間)……133万分の1

スマホによる脳腫瘍は、『気にする必要のない』数字だったということです。

もちろんここは、実際にそうなったと思われる人の使い方とかその人のコンデイションとか、もっときちんと因子を見る必要はあると思いますが、数字はそうである、ということです。

ま、「隣にいる女性がAV女優である」確率は、高かろうが低かろうが、『性急な対策が必要で、個人レベルでもお金を出してでも避けたい』わけではありませんが(笑)

正直、BSEは当時心配した後遺症で、私は最近までビーフエキス入りのカレーを食べることができませんでした。

いや、内心は大丈夫だろうと思っても、いったんやめたものって、復活するのに何かきっかけがほしいですよね。

私の『心配学』

私が、確率以上に主観の心配が勝ってしまった「心配学」は、いくつかあります。

まずは、今書いたBSEについてです。

福島の農産物とBSE

私の主観では、原発事故を経験した福島の農産物を心配するぐらいなら、輸入牛肉(由来食品)はちゃんと管理できているのか、というほうがよほど気になります。

なぜなら、危険部位に関する認識が国によって若干異なるからです。

当時からそれはいわれていたはずですが、危機意識ばかり煽る一部の「脱原発」の人は、2011年以来、より新しい不安の方が大事らしいですね。

でも、原発は1ベクレルも許さないといわんばかりの無茶な防御論陣の一方で、他の食品関連のリスクは一切忘れてしまった(飽きてしまった?)「危機意識」というのは合理的ではありません。

もっとも、上掲のように島崎敢さんによると、BSEに感染する確率は、2000年初めの当時のイギリスでさえ、40万人に1人だったそうです。

要するに、島崎敢さんから見れば、私の主観も50歩100歩の「心配学」の対象というわけです(笑)

PM2.5

最近ではあまり問題になりませんが、2016年頃はPM2.5が問題になりました。

中国の、空の色が変わった画像をテレビや新聞などは盛んに報じたからです。

しかし、PM2.5自体は以前からあり、たとえば京浜工業地帯の中核である川崎市南部(川崎区)など、中国のとばっちりで汚染されたという福岡より以前に、それよりも高い数値のPM2.5が検出されていました。

つまり、中国由来の福岡よりも、国産の川崎のほうが深刻なときがあったということです。

ところが、マスコミはなぜかあまり問題にせず、国民も中国の時ばかり騒ぎました。

中国産だろうが国産だろうが、PM2.5にかわりはないんですけどね。

なぜ国産は騒がず中国だけ騒ぐのか。

たしかに隣国の主張の一部には無茶な言い分もありますが、国民感情に便乗したマスコミの政治的意図を勘ぐらざるを得ません。

マスコミ報道はそういうものだということを国民は知るべきであるとともに、実際の数字と、人間の主観のいいかげんさの乖離もそんなところにあらわれているといえるでしょう。

つまり、何をいいたいかと言うと、人間は数字だけでなく、数字をどう捉えるか、という価値観に判断が影響されるということです。

確率をどう見るかは価値観の問題


つまり、何百万分の1だろうが、自分がその「1」になってしまえば1分の1なのです。

島崎敢さんは交通事故とテロの比較をして、交通事故ののほうが多いのにテロの心配をするのは「心配学」との指摘をしていますが、テロは全世界的ではなく局所的に起こるものですから、全世界の交通事故の数字と比較するのは異なる条件の比較になっています。

BSEにしても、まあたぶん大丈夫ではありますが、心配する理由としては、牛肉は食べない人、精肉だけを食べる人、危険部位の可能性を否定出来ない牛エキスなどを摂取する人、ズバリ脳などの危険部位そのものを食べる人などでは、リスクが全く違いますから、単純に人口数で「確率」を出すことには科学的には価値はあまりないと思います。

そういう意味では、数字で判断するなら、そうした因子も考慮してかなり踏み込んだ統計があると、もっと安心に近づけます。

いずれにしても、「心配しすぎず、安心しすぎず」理性的に恐れるという態度が求められるということなんでしょうね。

以上、『心配学~「本当の確率」となぜずれる?~』(島崎敢著、光文社、kindle)は、心配の度合いと実際の確率がずれることを解説、でした。

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