アベベ・ビキラ、円谷幸吉という伝説のオリンピック選手の活躍と生き様を振り返っている『栄光なき天才たち1上下』(ゴマブックス)

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アベベ・ビキラ、円谷幸吉という伝説のオリンピック選手の活躍と生き様を振り返っている『栄光なき天才たち1上下』(ゴマブックス)

アベベ・ビキラ、円谷幸吉という伝説のオリンピック選手の活躍と生き様を振り返っている『栄光なき天才たち1上下』(ゴマブックス)。2人を「ハダシの王者・アベべと忍耐の男・円谷」と表現し、偉業をこうたたえています。森田信吾さん渾身の一作です。

アベベ・ビキラさん (Abebe Bikila、1932年8月7日~1973年10月25日)は、エチオピア出身の陸上競技(長距離走)選手。

1960年のローマオリンピック、1964年の東京オリンピックと、いずれもマラソンで連続金メダルを獲得した不世出のマラソンランナーです。

サハラ以南のアフリカ出身者としては、初のオリンピック金メダル獲得者でもあります。

ローマオリンピックは、裸足でレースに参加したため、「裸足の王者」としても話題になりました。

もっとも、それはたんに合う靴がなかっただけらしいのですが。

一方、円谷幸吉さん(1940年(昭和15年)5月13日~1968年(昭和43年)1月9日)は、東京オリンピックで日本人として初めてマラソンで銅メダルを獲得しました。

子供の頃に患った結核性関節炎の影響で、右足先が極度に外側を向いたまま走る独自のフォームでした。

余談ですが、円谷幸吉さんの戴冠については、1936年ベルリンオリンピック以来の日本のメダルと書かれることがあり、実際に国際オリンピック委員会(IOC)における記録でも日本国籍の選手となっていますが、そのときに金メダルを取ったのは、孫基禎という日韓併合下の朝鮮の選手、銅メダルの南昇竜選手も同様に朝鮮の選手でした。

「日本はメダルを取ったが、日本人がメダルを取ったわけではない」というのは、孫基禎選手の息子さんも講演などで話しており、その意味では円谷幸吉選手が日本人で初めてのメダル獲得、という表現で良いと思います。

それはともかくとして、本書『栄光なき天才たち1上下』では、2人を「ハダシの王者・アベべと忍耐の男・円谷」と表現し、偉業をこうたたえています。

東京オリンピック―このスーパーイベントは、 日本にとって単なるスポーツの祭典ではなかった。 高度成長の波に乗り、世界の仲間入りをする。経済大国ニッポン』。この堂々たる姿を世界中にアピー ルしたい! という日本人の願望を見事に果たし たのが、このオリンピックであった。
そして、この大会~最大のヒーロー~がアベベと 円谷だった。アベベは、その哲学的風貌によって日本人に第3世界の神秘性、をきざみこみ、円谷は、その偉業と、後に訪ずれる悲劇によって、我我にとっては、永遠に忘れられない存在となった。 つまり、アベベと円谷の好走がなかったら、東京オリンピックの成功はありえなかったのである。
新幹線、首都高速道路…東京オリンピックの開催された昭和39年は、現代のニッポンの基礎が出来た年であった。その時、栄光を刻んだマラソンランナー2人の生き方を見つめ直し、現代に生き る人々に何らかの感動”をあたえることができれ ば、幸いである。

との内容ですが、本書のストーリーは、どちらかというと、円谷幸吉さんの方に力点が置かれた描き方のように見えます。

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まるで聖者のような走り

アべべは、皇帝ハイレ・セラシエを守る親衛隊の隊員となり、その軍事教練の中で陸上競技と出会います。

エチオピアオリンピック強化選手専任コーチの、オンニ・ニスカネンスウェーデン陸軍少佐は、「あの男はモノになりそうだ!」と、ずぐにアベベを見出します。

「美しい…美しいフォームだ。あの男だけが私の講義をきちんと聞き、それを理解して走っている。それにあの表情…神秘的だな。何を考えているのかさっぱりわからない」

コーチはアベベに言います。

「どうだね。明日から私の特別メニューで訓練を受けてみないか」

「イッヒ(はい)、わかりました」

アベベは返事だけして踵を返すと、またトレーニングをはじめました。

コーチはいささか拍子抜け。

「“なぜ私が?”とか質問してくると思ったのに」

アベベには「なぜ」はなかったのです。

典型的な軍人で、命令に最大限のパフォーマンスで応えるだけしか考えていません。

オリンピックでは、瞑想するかのように、うつむき加減の風貌は、聖者のようだと言われました。

ただし、アベベも人間です。

円谷幸吉は腰の持病に苦しみましたが、アベベもヒザに負担がかかっていました。

ローマ、東京で史上初の2連覇を達成したものの、メキシコオリンピックでは膝の故障で途中棄権。

さらに、交通事故で下半身不随となりました。

厳しく立派な人間に育てられたことによる栄光と絶望

円谷幸吉は、福島県岩瀬郡須賀川町出身。

「つぶらやこうきち」として知られていますが、地元では「つむらやこうきち」というそうです。

鬼子母神は「きしぼじん」が一般的ですが、地元では「きしもじん」と呼ぶようなものでしょうか。

一般に、名字に「沢」や「籐」があると、濁るかどうかがまちまちなこともあります。

名前は読み方が難しい。

それはともかくとして、円谷幸吉は厳しい父親のもとに育ったようです。

結果的に、その厳しさがメダルに繋がり、また残念な最期の伏線にもなっていると思います。

小学校のリレーで勝った幸吉少年は、その場で父親にどやしつけられます。

「男が、走ってる最中に後ろを伺うなんてみっともないマネをするんじゃない。自分を信じれば後ろを見る必要などない。人が追いかけてこないから安心だなんていうのはヨコシマな考えだ!」

競技である以上、相手がいるわけですから、この教えはいかがなものかと思うのですが、幸吉少年はこのときから、「走行中は後ろを振り向かない」という教えを守ることとなりました。

中学時代、剣道部で結果を出せなかった幸吉は稽古をサボるようになり、またしても父親に叱られます。

そんなとき、兄の喜久造から地元の駅伝練習に参加し、走る喜びを実感。

幸吉はそれがきっかけで、本格的に陸上競技者の道を歩み始めました。

高校卒業後、郡山の陸上自衛隊に所属した幸吉は、自衛隊の管区対抗駅伝や、青森東京駅伝などに出場。

区間新記録を次々立します。

その勢いで自衛隊体育学校入学(オリンピック候補)選考会に出ますが、その頃は曲がった右脚の負担から腰を痛めていました。

選考委員はそれを懸念し、校長は「東京オリンピックは国家事業。故障の選手などいらん」とまで言い切りましたが、教官となる畠野洋夫が「故障なら治せます」と言って押し切り、幸吉を自衛隊体育学校に入学させます。

当初は1万メートルに照準を絞っていた幸吉ですが、オリンピック出場権をかけた第19回毎日マラソンに参加。

東京オリンピックの出場権を獲得しました。

本作には出てきませんが、この頃、円谷幸吉は安保闘争で自衛隊を取り巻く環境は混乱していたことや、中央大学陸上部監督の西内文夫からの誘いがあったことなどから、駅伝に強い中央大学経済学部(二部)にも入学して練習を続けていました。

さらに、自衛隊体育学校では、選考に落ちた先輩の宮路道雄と南三男が、幸吉のペースメーカーで練習に付き合っていました。

幸吉にとっては素晴らしいトレーニングパートナーではあったものの、一方で生来の律儀さから2人の屈辱感を思い、これも後々プレッシャーになります。

こうした人々の配慮や善意を無にできない

といった思いが強くなり、それが忍耐の円谷といわれる我慢強い走りにつながっていきます。

東京オリンピック本番では、当初の照準であった1万メートルでも走りました。

選考会当日、5000でスパイクされ、1万のレースには出場できなかったのですが、陸連側の措置で出場決定。

しかし、それによってレースで出場枠に入った土屋和夫が涙をのんで出場を諦めました。

そうしたことも、円谷幸吉には負担となっていたのです。

結果は6位入賞。

その日からまた伊豆の合宿に戻り、マラソンの練習を再開していました。

そして、いよいよマラソン。

1位はアベベ、そしてなんと3位に円谷幸吉が入りました。

遂に、東京オリンピックのメインイベントで日の丸を揚げたのです。

しかし、このときもすでに、円谷幸吉の腰は悪化していました。

オリンピックが終わり、国民的英雄になった円谷幸吉は、練習も、腰の療養もできず、歓迎会や報告会などに時間と体を取られていきました。

1年以上、それが続き、レースの成績はどんどん落ちていきます。

国民の期待がプレッシャーになった円谷幸吉。

そして、本作によれば、円谷幸吉をいちばん落胆させたのは、陸上自衛隊郡山時代に知り合った女性との結婚が取りやめになったことでした。

自衛隊体育学校の校長が、次のオリンピックに向けて精進しなければならないときに結婚なんかしてはならない」と反対。

また女性も、「雲の上の人」になってしまった円谷幸吉を待ちきれずに他の人と結婚することにしたのです。

かつて、幸吉は日本に滞在中のアベベを表敬訪問したとき、「あなたは何のために走っているのですか」と尋ねるとアベベはこう言いました。

「我々、競技者はすべて負ける運命を背負わされている。年齢がそれだ。だが、たとえその時が来たとしても、家族さえいれば私は生きる目的を失うことはない。家族は…家庭はいいものだ」

つまり、幸吉は「生きる目的」を失ってしまったのです。

マスコミは、銅メダルを取ったときはさんざん持ち上げたくせに、成績が落ちると「自衛隊の星、墜つ」「メキシコは無理」などと手のひらを返したように絶望的に書き立てました。

円谷幸吉は昭和43年正月、実家に帰ると正月のごちそうを堪能し、松が取れた8日に自衛隊体育学校の幹部宿舎で頸動脈をカミソリで切り自殺しました。

父上様 母上様 三日とろろ美味しゅうございました
干し柿、もちも美味しゅうございました
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました
勝美兄姉上様、ぶどう酒、リンゴ美味しゅうございました
巌兄姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しゅうございました
喜久造兄姉上様、ぶどう液、養命酒美味しゅうございました
又いつも洗濯ありがとうございました
幸造兄姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました
モンゴいか美味しゅうございました
正男兄姉上様、お気を煩わして大変申し訳ありませんでした
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん
ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん
ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん
幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君
立派な人になって下さい
父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません
何卒お許し下さい
気が安まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました

親族ひとりひとりに挨拶をしているんですね。

私は東京の人間である上に、親類とは没交渉なのでわかりませんが、地方の人というのは、一族郎党としていつも物事を考えるのでしょうか。

それとも、またこれも父親の教えなのかな。

子育てはむずかしいですね。

放任でも厳しすぎてもいけないわけですから。

それにしても、日本人初のマラソンメダリストだったのに、惜しい亡くなり方をしました。

正当な評価をされず歴史の影に埋もれてしまった人物・組織

『栄光なき天才たち』は、伊藤智義さん一部原作、森田信吾さん作画による漫画です。

Wikiには、こう説明されています。

いわゆる偉人伝であるが、本来ならその業績を正当に評価されるべき人物・組織が、様々な理由から、

現在では正当な評価をされず歴史の影に埋もれてしまった
現在では評価はされているものの、当時は全く評価されなかった
現在のみならず、その人物の存命中にすでに高い評価をされていたが、その当事者達を取り巻いていた厳しい状況
などを、それまでの偉人伝とは異なった手法で取り上げた。

『週刊ヤングジャンプ』(集英社)に、1986年23号~1992年24号まで連載されました。

その後、続編も『週刊ヤングジャンプ』で連載されています。

単行本は、集英社のヤングジャンプ・コミックスに、第1巻~第17巻まで発行されています。

Kindle版は、その収載の順序を変えて1巻上下で合計7巻、無料、もしくはKindle Unlimitedの読み放題リストで読むことができます。

現在、Kindle版で公開されている『栄光なき天才たち』シリーズは、上下でひとつの話が完結し、それが全7巻あります。

1上下、アベベ・ビキラ、円谷幸吉
2上下、デビッド・W・グリフィス、マリリン・モンロー
3上下、スウェン・ヘディン、澤村栄治
4上下、川島雄三、島田清次郎
5上下、浮谷東次郎1
6上下、浮谷東次郎2
7上下、佐藤次郎

今記事では、1巻についてご紹介しています。

1巻は上下のほか、2巻上下(デビッド・W・グリフィスとマリリン・モンロー)も含めた大合本もAmazonUnlimited加入者は0円で購入できます。

マンガ図書館Zの無料リストにも含まれています。


ただし、どちらも期限はわからないので、早いうちに読まれたほうがよいと思います。

以上、アベベ・ビキラ、円谷幸吉という伝説のオリンピック選手の活躍と生き様を振り返っている『栄光なき天才たち1上下』(ゴマブックス)でした。

栄光なき天才たち1 1巻 - 森田 信吾
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