師匠、御乱心! (三遊亭円丈著、小学館文庫) は、かつて三遊亭圓生一門による落語協会からの分裂騒動を当事者の一人として回顧

この記事は約10分で読めます。
スポンサーリンク

師匠、御乱心! (三遊亭円丈著、小学館文庫) は、かつて三遊亭圓生一門による落語協会からの分裂騒動を当事者の一人として回顧

師匠、御乱心! (三遊亭円丈著、小学館文庫) は、かつて三遊亭圓生一門による落語協会からの分裂騒動を当事者の一人として回顧した書籍です、師匠への愛憎、テレビと違う兄弟子たちの「素顔」、亭号の三遊亭に対する著者の思いなどが綴られています。

『師匠、御乱心!』は、昨年亡くなった三遊亭円丈さんが、小学館文庫から2018年に上梓しました。

もとは、1986年に出版した、三遊亭圓生一門なとによる分裂騒動の回想記である、『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち』です。

今から44年前になりますが、落語協会において、当時会長だった5代目柳家小さんら執行部が行った真打大量昇進に対して、前会長で最高顧問の6代目三遊亭圓生がこれに反発する形で落語協会を脱退。

圓生一門が、新団体の落語三遊協会を設立したことがありました。

それを、落語協会分裂騒動といいます。

実際には、もっとほかにも落語三遊協会に同調した人はいたのですが、旗揚げのときは6代目三遊亭圓生一門だけが離脱することになりました。

なぜ、いったんは離脱に同調した落語家たちが翻意したかというと、その一番の理由は、上野鈴本演芸場、浅草演芸ホール、新宿末広亭、池袋演芸場など寄席の席亭(寄席のオーナー)たちが、分裂を認めなかったからです。

落語三遊協会に行った落語家は、自分のところの寄席には上げない、としたのです。

有名な落語家なら、寄席以外でも仕事はありますが、その弟子のことを考えたら、寄席と喧嘩はできないと判断したわけです。

出版界も、街の書店が書籍販売のメインチャンネルのときは、取次店が一番強いといわれてきました。

近年はAmazonによってかわりましたけどね。

落語界も、実は寄席のオーナーがいちばん強かったわけです。

ただし、別に寄席側は自分の意見で意地悪をしたわけではなく、円生一門が角を収めて戻るかわりに落語協会会長への復帰も勧告していました。

それでも事態は解決せず、遂に一門は分裂へ。

さらに分裂後は、6代目三遊亭圓生と、一番弟子の5代目三遊亭円楽が反目。

6代目三遊亭圓生没後、円楽一門は大日本すみれ会を旗揚げし、それ以外の人達は6代目三遊亭圓生夫人の口利きで落語協会に復帰しました。

それが現在まで続いています。

そのために、先日亡くなった6代目三遊亭円楽さんは、テレビ『笑点』に出演する有名な落語家でしたが、落語家としてのホームグランドで、歴史と伝統のある寄席に出られませんでした。

著者は、タブー視されていたこの騒動の顛末を、当事者として明らかにしながら、騒動で崩壊してしまった三遊亭の亭号を惜しんでいます。

本書は2002年10月21日現在、AmazonUnlimitedの読み放題リストに含まれています。

スポンサーリンク

名人の円生vs和の小さん

落語家としての6代目三遊亭圓生は、20世紀を代表する名人落語家3人のうちの1人といわれています。

3人を生まれた順に列挙すると、5代目古今亭志ん生、8代目桂文楽、6代目三遊亭圓生です。

しかし、その人柄については評価が分かれるようで、他の落語家らとの人間関係は必ずしも良いものではなかったといわれています。

落語の真打ちに制度ついては実力主義を唱え、大量にトコロテン式に真打ちにすることは我慢ならなかったようです。

また、本書によると、頭を下げること、間違いを認めることは恥と考えていたことも、落語協会に戻るチャンスを逸した原因になっています。

一方、5代目柳家小さんの性格は非常に穏やかなもので、落語協会会長時代は理事との合議制をとりました。

落語家の真打昇進については、ゴールではなく入り口で、そこからの頑張りが大切という考え方で、真打ち自体が芸のひとつの到達点と考える、6代目三遊亭圓生とは根本的に考えが異なりました。

分裂騒動で、いったん離脱を表明したものはペナルティを与えることも考えましたが、席亭から「あんたの不明を恥じることでもあるのだから、だったらあんたも会長をやめろ」と言われたら、あっさり撤回したといいます。

秘密主義や弟子に踏み絵をふませるやり方に弟子たちが不信感

本書によると、書かれていることの95%は事実、4%は細かい言い回しや更生順序の僅かな違い、残る1%にギャグを入れているそうですが、ギャグはもっと多いのでは、と思うほど、生臭いことを書いている割にはどんどん読み進めることができます。

表現については、さすがに明治大学の文学部に入っただけあって、文才がないとまずこれだけ書けないだろうと思いました。

実際の表現は、もう本書を読んでいただくしかありませんが、ここでは巻末の『ドキュメント 落語協会分裂から三遊協会設立の経緯』より事実経過を追っていきます。

なお、本書に従い、西暦ではなく元号を使います。そして、敬称略。

まず昭和53年5月8日、落語協会理事会が開かれ、真打大量昇進問題と理事の交替について、真打ち問題は円生、志ん朝が反対、談志は棄権。賛成多数 で可決します。

5月10日に、著者・三遊亭円丈が真打披露の千秋楽を迎えます。

師匠の三遊亭圓生は、50日間、円丈の口上につきましたが、それは含みのあることだったのかもしれません。

5月12日 円生宅に円楽を除く弟子一同が集合すると、円生は「私は協会をやめる。お前達全員、円楽の預かり弟子になり、協会に残ってほしい」と言ったが一同反対をしました。

実はこれは、師匠への忠誠をためす踏み絵でした。

5月14日 仙台で円丈真打披露が行なわれましたが、会の後、円生は「あたしには策がある」と発言。

円丈は会を割って出ることを知り、兄弟弟子全員に電話をしました。

しかし、円窓など一部の兄弟子は実はそれを知っていました。

秘密主義や弟子を試すやり方について、著者に限らず弟子たちは不信感を抱いていきます。

5月18日 さん生、好生はそれぞれ円生宅を訪れ、一門を抜けて協会に残ることを告げました。早くも離脱者が出たのです。さん生は小さん門下で川柳川柳、好生は正蔵一門で春風亭一柳と改名しました。

寄席側は円生に最大限譲歩した勧告

5月21日 金沢で円生と10代目金原亭馬生が会談しましたが、馬生は「もう少し若ければ……」と脱会を断りました。

5月23日には、円生と柳家小さんが椿山荘で会談。

小さんは、「後日、顔を立てれば、戻ってくれるのか」と譲歩するものの、円生は脱退の意思を変えず交渉は決裂。

5月24日には赤坂プリンスホテルで、「落語三遊協会」設立の記者会見が行なわれました。

「真打には世間が納得する人物を出さなければだめです。勝算がなければ火蓋は切りません。 寄席には根廻しをすませた」(円生)

「円生さんに世話になり、円蔵という名前をいただいているから自然の成り行き。記者会見なんてえの は大臣にならなきゃァ出来ないと思っていた。 もうどうなってもいいよ」(7代目橘家圓蔵)

「真打問題は円生師匠と同じ考え。 後悔しないために渦の中に飛び込みました。 兄貴(馬生)に相談す ると気持がぐらつくと思ったので、事後承諾でした。あんちゃんごめんよと言ったら、一生懸命やれ よと言ってくれました」(古今亭志ん朝)

「師匠が行くなら弟子としてあたりまえ、もともと反逆児的要素があるから」(月の家圓鏡、8代目橘家圓蔵)

ところが5月25日、新宿末広亭の席亭会議では、「今まで通り落語協会と一本化しなければ受け入れない」「(落語協会は)円生会長に復帰することを勧める」等の決定をしました。

つまり、ここで落語三遊協会の分裂は現実的ではなくなったわけです。

もっとも、席亭側はたんに落語三遊協会をつぶしただたけでなく、かわりに円生の会長復帰を勧めているのですから、円生にとっても悪い話ではなかった。

会長に返り咲いて、真打ち問題などで自分の方針を実行することができたわけです。

そして、「寄席四軒の顔を立てて元のサヤに収まって欲しい」(新宿末広亭席亭・北村銀太郎)と言っているのですから、呑めば席亭にも貸しが作れた。

にも関わらず、「(落語と面子のどちらが大事かは)両方大事だが、今は面子だ」と、この勧告を呑みませんでした。

自分だけの問題ではなく、弟子、孫弟子の落語家生命がかかっているのですから、やはりここは問われるべきことだと思います。

円生が亡くなり円楽一門以外は落語協会復帰へ

5月30日 円蔵一門、志ん朝一門は落語協会に復帰を決定。

その一方で5月31日には、 円生が一門の脱会届けを小さんに手渡しました。

6月1日には、席亭側が落語協会、落語三遊協会に呼びかけ、料亭「神田川」で調停会議が開かれたものの、落語三遊協会はこれを拒否したため、円生一門の落語協会復帰への道は完全に絶たれました。

その後は、円生のネームバリューで仕事をとり、弟子たちも抱き合わせで稼がせます。

しかし、著者は落語協会離脱を巡る話し合いの中で、円生夫妻から理不尽な罵倒をされたこともあり、親鳥から餌を与えられるヒヨドリではなく、自分で羽ばたきたいと考えるようになりました。

円生は、自分が頑張らねばというプレッシャーが芸にはプラスに働き、芸には一段と凄みが増したものの、9月3日、過酷なスケジュールから心不全を起こして亡くなってしまいます。

9月12日には、円生の告別式が行われましたが、「この頃から内部の対立が進行していったようだ」と書かれています。

11月25日には、円楽が落語協会復帰を否定。

12月20日には、円楽一門以外の円生一門は落語協会への復帰を決定しました。

円生の落語協会脱退には、真打ち問題がありますが、脱退の背中を押したのは、円生が唯一信用していた円楽であると書かれており、本書では円楽が最大の悪役として描かれています。

ただ、円楽は落語協会に復帰しませんでしたし、その後、財を投げ打ち、1億4千万円の借金(総額6億円以上)をして1985年4月に寄席若竹をオープンしているわけですから、とにかく筋は通したのではないでしょうか。

その他、兄弟弟子に対する言動や著者の評価は事細かに書かれていて、大変興味深い展開になっています。

いずれにしても、著者はこれで歴史と伝統の三遊亭は崩壊してしまったと嘆き、自分が一番守りたかったのはその亭号であることを告白しています。

落語家にとって師匠や名前は大切なもの

余談ですが、私は以前、足立区にある圓丈師匠のお宅におじゃましたことがあります。

当時は今より操作が難しかった、MS-DOSをOSに搭載したパソコンを使って、新作落語のネタのデータベース化を行っていることを、ベネッセの進研ゼミの会員用機関誌の記事で紹介することになったのです。

お邪魔すると、いきなり大きな柴犬が奥の部屋から走ってくるので、犬が苦手な私は思わず「えーっ」と声を上げてしまいました。

取材中は、弟子の人に抑えていてもらいましたが、もしかしたら圓丈師匠は、それでちょっとへそを曲げたかもしれません(汗)

それにしても、落語家は「噺家」でありまずか、さすがに「作家」の素養もあるのですね。

涙と笑いで読み進めることができます。

落語家の著書としては、上方ですが、笑福亭松枝さんが書いた『ためいき坂くちぶえ坂ー松鶴と弟子たちのドガチャガ改訂版』(浪速社)は、七代目松鶴襲名騒動を笑いと涙で描いています。

『ためいき坂くちぶえ坂ー松鶴と弟子たちのドガチャガ改訂版』(笑福亭松枝、浪速社)は、七代目松鶴襲名騒動を笑いと涙で描いた
『ためいき坂くちぶえ坂ー松鶴と弟子たちのドガチャガ改訂版』(笑福亭松枝、浪速社)は、七代目松鶴襲名騒動を笑いと涙で描いたものです。松鶴襲名問題を通して、著者の人生における師の存在を再確認します。名跡とはなにかを考えさせてくれる力作です。

両書に共通しているのは、名前へのこだわりです。

笑福亭松枝さんは、師匠の6代目笑福亭松鶴を大切にしており、その名跡を誰かに継がせようとした一番弟子の笑福亭仁鶴を批判しています。

本書の三遊亭円丈さんは、三遊亭という亭号に誇りを持っており、分裂騒動で三遊亭の保守本流一門を崩壊させてしまったことを嘆き、その首謀者と思われる5代目三遊亭円楽をやはり批判しています。

元落語家の書籍としては、本書が上梓の契機になったと思われる、金田一だん平さんの『落語家見習い残酷物語』(晩聲社)をご紹介したとがあります。

『落語家見習い残酷物語』(金田一だん平著、晩聲社)は落語家に弟子入りしたが残れなかった「私怨と私憤満載の不思議本」
『落語家見習い残酷物語』(金田一だん平著、晩聲社)という書籍が1990年に発行されました。落語家に弟子入りしましたが、結局残れなかった者の「私怨と私憤満載の不思議本」(版元宣伝コピー)です。私はその「不思議」とは何かを改めて考えてみました。

こちらは、本書にも出てくる6代目三遊亭圓窓を師匠としたことを嘆いている「私怨と私憤満載の不思議本」ですが、落語界に対する関心を深めることを助けてくれました。

こうした書籍を読むと、落語家に対する関心が湧いてきますね。

まあ、私も還暦過ぎて、今更どこから弟子入りもできませんが、どうせたいした人生でもなかったし、腹を決めて落語家に弟子入して自分がどこまでできるか頑張ってみるのもよかったな、なんて考えてしまいました。

それにしても、本書刊行後44年たち、当時騒動に何らかの関わりを持った人は、著者を含めてほぼ鬼籍に入ってしまいました。

発表当時は暴露本の扱いだったかもしれませんが、事件から多くの時間が経過し、当時の経緯を伝える価値ある一冊になっているのではないでしょううか。

時の移ろいを感じつつも、改めて騒動を振り返れる良書です。

ご一読をおすすめいたします。

以上、師匠、御乱心! (三遊亭円丈著、小学館文庫) は、かつて三遊亭圓生一門による落語協会からの分裂騒動を当事者の一人として回顧、でした。

師匠、御乱心! (小学館文庫) - 三遊亭円丈
師匠、御乱心! (小学館文庫) – 三遊亭円丈

師匠、御乱心! [ 三遊亭 円丈 ] - 楽天ブックス
師匠、御乱心! [ 三遊亭 円丈 ] – 楽天ブックス

コメント