凡夫、ゆきやすき道(藤場俊基著、響流書房)(響流ブックレット)は、在野の教学者である著者の展開する浄土真宗の救済論です

この記事は約11分で読めます。
スポンサーリンク

凡夫、ゆきやすき道(藤場俊基著、響流書房)(響流ブックレット)は、在野の教学者である著者の展開する浄土真宗の救済論です

凡夫、ゆきやすき道(藤場俊基著、響流書房)(響流ブックレット)は、在野の教学者である著者の展開する浄土真宗の救済論です。浄土真宗は、人間が自力で解脱することは不可能であるとし、阿弥陀如来の慈悲によって救われることを説きます。

『凡夫、ゆきやすき道』は、藤場俊基さんが響流書房から上梓しています。

響流ブックレット、というシリーズ名がついています。

藤場俊基さんは、早稲田大学政治経済学部卒業後、5年間三和銀行勤務。大谷専修学院修了、大谷大学大学院博士課程(真宗学専攻)満期退学されたそうです。

大谷というのは、大谷派の大谷ですね。

京都の大学ですね。

それはともかくとして、要するに浄土真宗の教学書です。

浄土真宗は、大乗仏教の宗派の一つで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨です。

鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを伝える宗派です。

浄土真宗は、人間が自力で解脱することは不可能であるとし、阿弥陀如来の慈悲によって救われることを説きます。

浄土真宗は、日本国内に多くの寺院があり、世界中にも信者がいます。

真宗十派+単立が存在します。

響流書房の公式サイトから、本書の内容について引用します。

浄土というのは往き易いと言われながら、一方ではその道を歩むものは少ないとも言われる。本当に私たちにとって誰でも歩める道なのか、私は救われるのか救われないのか。「私みたいなものはだめだ」と嘆いている、そういう私が救われなければ阿弥陀さんの仕事は要らないと著者は言う。
なぜ浄土真宗は「ただ念仏しなさい」の一点をもって本願とするのか。在野の教学者である著者の展開する浄土真宗の救済論。

浄土真宗のお経といえば、浄土三部経(じょうどさんぶきょう)ですが、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』の三経典のことをいいます。

先程書いた「自力で解脱することは不可能である」ことが示されている、観無量寿経について内容を抜粋しましょう。

スポンサーリンク

観無量寿経とは

観無量寿経とは、南無阿弥陀仏のお念仏を称えることによって救われ、極楽に往生できることを説く経典です。

観無量寿経は、「いづれの行もおよびがたき」罪悪の凡夫でも、南無阿弥陀仏のお念仏を称えることによって救われ、極楽に往生できることを説く経典です。

観無量寿経は、王舎城の王子阿闍世(アジャセ)が、悪友提婆達多(ダイバダッタ)にそそのかされ、父王頻婆娑羅(ビンバシャーラ)を幽閉して死に至らしめ、母、韋提希(イダイケ)夫人をも軟禁したという悲劇(実話とされる)を機縁として、浄土往生の方法が説かれた経典です。

ある時父ビンバシャーラ王の多いを狙って 息子阿闍世が父親を幽閉し 亡き者にしようとしました

しかし阿闍世の母でありビンバシャーラ王の妻である韋提希(イダイケ)夫人が、密かにビンバシャーラ王に食を運んでいました。

それを知った阿闍世は激怒し、母である韋提希も幽閉してしまいました

実は、阿闍世には出生の秘密がありました

ビンバシャーラ王と韋提希にはしばらく子ができませんでした

そのことある人に占ってもらうと、「あの 林の中に入る仙人が亡くなると、その仙人が生まれ変わって 子を宿すことができるでしょう。それまでしばらくお待ちください」と言われました

しかし、ビンバシャーラ王と韋提希は待つことができず、その林にいる仙人を殺してしまいました。

その仙人人が殺される間際、「今度生まれてくる子は必ず災いとなるだろう」と言い残して死んで行きました。

その言葉を聞いた、ビンバシャーラ王と韋提希は、今度は急に生まれてくる子が恐ろしくなり、宿していた子を、出産直後に崖から落として殺そうとします

しかしその後は一命を取り留めました。

そうして育った子が、阿闍世王子なのです

この事の次第を、教団を奪おうとしていた提婆達多(ダイバダッタ)によって 阿闍世王子は知ることとなりました

そして、王と同様に、イダイケも幽閉されてしまったのです

幽閉の身となり悲嘆にくれるイダイケ。

イダイケは、遥か世尊(お釈迦様)のいらっしゃる 耆闍崛山(ぎしゃくっせん)に向かって礼拝し お説教をしてくださるようにお願いいたします

そうして イダイケが礼拝し頭を上げたその時もうそこに 紫金色に輝いた世尊が、目連尊者と阿難尊者を伴って来られました

イダイケは世尊に、「私は何の罪があって あのような子を産んだのでしょうか。どうしてこの世は濁悪(じょくあく)なことばかりなのでしょう。 もう未来において そのような悪いことを見たくありません。どうかそのような悪のない清らかな世界をお説き下さい」 とお願いします

その時世尊は、あえてイダイケのの「説いてください」と いう求めには応じず 眉間の白毫(びゃくごう)から光を放ち そこに十方のあらゆる浄土を映し出して見せました。

それを見たイダイケは 「これらの浄土の中で、 私は極楽世界の阿弥陀仏の身元に生まれたいと思います。どうか 私一人のため 今までとは違う特別な修行方法 私に教えてください」とお願いします

その時世尊は、微笑まれ おっしゃいました

「イダイケよ そなたは知っているであろうか。阿弥陀仏がおられるところはここから遠くはない。私は今 あなたのために広く譬え(例え)を説こう。そのことによって 未来の人々も 西方の極楽世界に 生まれるであろう」

世尊はここでも、イダイケが 私のためにと 求められたのに対し、あえて、「未来のすべての人々のために」と教えを説かれます

その教えも、イダイケが「今までと違う特別な修行法」を求めたのに対し、世尊はあえて「三福」という 一般的な善行を説かれます。

この時イダイケは 「そんなことなら、今まで私は行ってきました。それ以上の 修行方法が知りたいのです」 と内心で思っていました

そのイダイケの内心のご様子をご覧になって 世尊は言います

「如来は今 イダイケと 未来のすべての人々のために、西方極楽世界を見るための方法を教えよう」

しかしイダイケは このときもまだ 私一人のため と 思っています

そこで 世尊は続けます

「イダイケよ。 そなたは普通の凡夫なのだ。 心の働きも劣り、神通力も持ってはいないので 遠くを透かし観ることはできないのだ。けれども、仏は特別な手立てがあるから、先ほどのように そなたに極楽を見せることができるのだ。あなたの力では を見ることができないのだよ」

ここに至って、イダイケは 気づきます。

先ほど十方 の世界から 極楽を自分で選んだように思っていたが、実は 私にはそのような力はなかったのだ。全て 仏の力によってなされていたのだ。

私は今まで すべてが自分の都合のままに生きてきた。 子を産むのも、修行もすべてが 「自分のために自分の力で」を求めてきた。

しかしそれは 誤りだったのだ

今こそ 「自分」を捨てるときなのだ。

そして 世尊にここを言います

「世尊よ 本当に私のような愚かな凡夫は 仏の力によればこそ、彼の極楽国土を見ることができたのです。 しかし、世尊なきあと、未来世のの人々はどのようにしたら、阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるでありましょうか」

ここでイダイケは 「自分のため」から、「未来のすべての人々のため」へと、心が向かったのです。

世尊はこのイダイケの 「未来のすべての人々のために」という言葉を待っておられました。

ここにきてようやく イダイケの心の準備が整ったのです

そうしていよいよ、 極楽を見る16の方法を解かれます。

これは先ほど 世尊の眉間の光によって映し出された浄土の姿を、未来の人々も見ることができるように説かれたものです。

その16の方法とは、 太陽を見る方法(日照観) から始まり、 極楽の清らかな水を見る方法(水想観)、 極楽の大地を見る方法(宝地観)、 極楽の木々を見る方法(宝樹観) 極楽の池を見る方法(宝池観) 極楽の楼閣・建物を見る方法(宝楼観)を経て、 次に第七華座観、阿弥陀仏のいらっしゃる蓮華座を見る方法を説かれようとされた時でした。

その時世尊は、突然「心して聞きなさい。心して聞きなさい これから言うことを良く思念しなさい。 仏はまさにあなたがたのために苦悩を取り除く法を考え 解説しよう。 あなたたちはそれを記憶して広く人々のために考え 説くのだ」とおっしゃったのです。

すると その世尊の言葉に呼応して突然、光り輝く無量寿仏(阿彌陀佛)が 観音勢至のニ菩薩を伴って空中に立たれました

そこでイダイケは 無量寿仏(阿彌陀佛)を拝み、両掌に仏の御足を受け、 うやうやしく礼拝し、「世尊、私は今、世尊のの力によればこそ、無量寿仏(阿彌陀佛)と観世音、大勢至のニ菩薩を拝むことが出来ました。しかし、世尊ご入滅後の未来の人々は、どうしたら、只今のわたしのように、無量寿仏とニ菩薩を拝むことができるのでしょうか」と尋ねます。

もうそこには、「自分ひとりのために」とか、「自分の修行によって」という心はありませんでした。

そこで、世尊は、「彼の仏を拝もうと思うならば、まずは、仏のいます蓮華座を観るが良い」とおっしゃいます。

さらに世尊は、「以上のように蓮華座を見たならば、その上に坐したもう阿彌陀佛の像を観るが良い」と追っしゃいました。

そして次に、いよいよ、阿彌陀佛の御身体と光明について説かれました。

「無量寿仏(阿彌陀佛)には、8万四千のお姿の特徴があり、そのひとつひとつの特徴には、また、八幡四戦の小さな特徴が備わっている。そして、そのひとつひとつにはまた、8万四千の光明が備わっており、その一つ一つの光明は、あまねく十方世界の念仏の人々を照らし、すくい取って捨てたまわないのである。」

この後続けて世尊は、観音菩薩を観る方法(観音観)、勢至菩薩を観る方法(勢至観)、自分が極楽に生まれる境地を観る方法(普観)、一丈六尺の阿彌陀佛を観る方法(雑想観)を説かれます。

ここまで説き終わると、世尊は、イダイケが求められたわけではなく、ご自身から進んで、仏法に出会う縁について、上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)に到る九段階に分け、阿難とイダイケに説かれます。

この中にある、下品下生とは、「五逆十悪を犯した悪人は、命終わろうとする時、仏法を説く先達が来て、法を説き、仏を念じなさいと言っても、この人は苦しみが襲ってきて、仏を思うことができない。

では、せめて、無量寿仏(阿彌陀佛)の御名をたたえなさい、と言って、一審に南無阿弥陀仏と称えさせた。

すると、八十億劫の罪が消え、まさに命が終わる時、金色の蓮華が、日輪のように
その人の前に現れるのを見て、一周にして極楽世界に往生する」

そうして、すべての観想(思い見る)方法を説き終わると、イダイケと五百人の侍女は、極楽世界及び、無量寿仏(阿彌陀佛)とニ菩薩を観ることができ、安らかな悟りの境地へと至りました。

その時、阿難は、「このお経をなんと名付けたら良いのでしょうか。そして、このお経の要をどのように保つべきでしょうか」と尋ねられました。

世尊は、「このお経を、『極楽の国土と無量寿仏、観世音菩薩、勢至菩薩を観想する(おもいみる)経』と名付け、また、『悪業のさわりを浄め除き、諸々の仏の御前に生まれる経』と名付ける」と答えられました。

そして、「汝よ、よくこの言葉(このお経)を心に留め続けなさい。この言葉(このお経)を心に留め続けるということは、無量寿仏の御名、すなわち南無阿弥陀仏を心に留め続けるということである」と結ばれました、

そうして世尊は、再び耆闍崛山(ぎしゃくっせん)にお帰りになられました。

そして今度は、阿難が、この山において、多くの修行僧のために、このお経を語ったところ、みな歓喜の心を起こし、恭しく世尊を礼し、退出されたのでした。

安価で、手軽に、仏教を

本書のあとがきから引用します。

響流書房とは
今から二十年前に起きたオウム真理教事件。その元信者が、どうして既存仏教に救いを求めなかったのかと聞かれて 「お寺は社会の風景の一つでしかなかった」と答えたことは衝撃的でした。
寺に行けば仏教の教えが聞け、わかりやすく素晴らしい仏教書が手に入る。 仏教教団というこの世界の中からみると当たり前のことかもしれませんが、外から見れば決して当たり前のことではありません。
響流書房。この小さな出版社が目指すものは、仏教の教え、とりわけ浄土真宗の教えを、わかりやすく、安価で、手軽に、一人でも多くの人にお届けし、そして後世に残すことでそのために響流書房は電子出版という出版形態を選びました。……

ということで、「響流書房」は著者が立ち上げられた出版社で、電子書籍をリリースされているそうです。

そして、既存仏教に希望を見いだせずにカルト宗教に、というのは、先日ご紹介した、池上彰と考える、仏教って何ですか?(池上彰著、飛鳥新社)にもありましたね。

お釈迦様の仏教の誕生から大乗仏教、葬式や新興宗教まで解説した書籍ですが、

新興宗教やカルトが力を得るのは、既存の宗教や価値観が人の心を惹き付ける力を失っているからです。伝統宗教ではなく、新しい時代にできた仏教のほうが魅力的に思えるのは、多くの人が伝統仏教の姿に、すでに救いを見出だせなくなっているからでしょう。

と記しています。

池上彰さんは、「葬式仏教」になってしまったのは、伝統宗教側の責任であり、それが人々に宗教への関心・期待などを抱かせなくなったと指摘しています。

つまり、お経だけ読んで、お布施をもらって、すぐ帰ってしまうと。

そこでありがたい法話でもしているのかと。

しなきゃ、人々の心は離れてしまうだろうと。

その意味で、藤場俊基さんの響流書房には、大いに期待しています。

以上、凡夫、ゆきやすき道(藤場俊基著、響流書房)(響流ブックレット)は、在野の教学者である著者の展開する浄土真宗の救済論です、でした。

凡夫、ゆきやすき道 (響流ブックレット) - 藤場 俊基
凡夫、ゆきやすき道 (響流ブックレット) – 藤場 俊基

コメント