初代長瀬富郎伝(服部之総著、花王石鹸五〇年史編纂委員会)は、月のマークでおなじみ、花王創業者の生き様と功績をまとめた書籍

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初代長瀬富郎伝(服部之総著、花王石鹸五〇年史編纂委員会)は、月のマークでおなじみ、花王創業者の生き様と功績をまとめた書籍

初代長瀬富郎伝(服部之総著、花王石鹸五〇年史編纂委員会)

初代長瀬富郎伝(服部之総著、花王石鹸五〇年史編纂委員会)は、月のマークでおなじみ、花王創業者の生き様と功績をまとめた書籍です。1940年初版です。日本の近代的な石鹸産業をどのようにして築いたか、創業者の試行錯誤とともにまとめられています。(文中敬称略)

今日も、国立国会図書館所蔵書籍からです。

長瀬富郎(ながせ とみろう、文久3年11月21日(1863年12月31日) – 明治44年(1911年)10月26日)は、花王株式会社(旧称:花王石鹸)の創業者であり、日本の近代的な石鹸産業を築いた先駆者です。

その生き様と功績は、明治時代の日本における近代化の流れの中での、起業家精神と市場創造の努力によって特徴づけられています。

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安売りはせず品質を向上させる


長瀬富郎は、美濃国恵那郡福岡村(現在の岐阜県中津川市福岡)の造り酒屋「寿々田屋」に生まれます。

次男だったので、12歳の時に母親の実家である加茂郡神土村(後の加茂郡東白川村神土)へ奉公に出て、17歳のとき奉公先の店主の弟が独立したのに従い店を移ります。

23歳の時に上京し、米相場に挑戦するも失敗し、無一文になります。

この時の挫折を教訓とし、「堅実に生きる」ことを終生の誓いとしました。

1887年、23歳の時に「長瀬洋物店」を創業(p.57)。

洋小物問屋として、石鹸や文房具の卸売業を始めます。

無一文でしたが、親類はあてにせず、無盡(むじん)で250円を作り、共同出資者の服部鈴吉も同額を出資しました(p.58)。

無盡とは無尽講のことです。相互扶助のために金をつみたて、困ったときに融通しあう仕組みです。

服部鈴吉は、長瀬富郎と共に花王の創業に関わった人物です。

当時、国産石鹸の品質が低く、顔を洗うと皮膚を痛めました。

アメリカ製の石鹸に比べて著しく質が劣ることに不満を持ち、石鹸の自社製造を決意します。

これも、これまで何人もの成功者にあてはまるパターンですね。

国産、自社製造にこだわるということです。

1890年には、石鹸職人・村田亀太郎と共に満足できる品質の石鹸製造に成功し、「花王石鹸」として発売しました。

村田のウデで素材の質を向上させるだけでなく、色素や香料の配合も改善が必要と、薬剤師の力も借りました。

社名は、「香王」「華王」などいろいろ候補はあったそうですが、とにかく読みは「かおう」にしたかったそうです。

理由は、「顔の洗える国産石鹸」という点を強調したかったからだとか。

最終的には、日本文化や美意識を大切にし、「美の王」という意味を込めて名付けたと言われています。

この石鹸は贈答用としても珍重され、現在も中元・歳暮シーズンの主力商品となりました。

そして、もうひとつ重視したのは販売戦略です。

アメリカ製のシェアを崩すために、どうしたらいいのか。

アメリカ製より安く売るか。

いえ、長瀬富郎が採ったのは、その逆でした。

桐箱に入れ、能書きや証明書を付け、高級感を持つブランドにすべくアメリカ製の4倍の値段をつけました。

当時の日本では石鹸はまだ一般的ではなく、多くの人々は灰や米ぬかを使って洗浄していました。

そのため、長瀬は石鹸の使い方やその利便性を積極的に広める啓蒙活動を行いました。

この戦略が功を奏し、石鹸の普及に大きく貢献しました。

値付けというのは大切です。

競争相手が多い場合は、安く売ることはアドバンテージになりますが、利益を考えないと、宣伝や商品開発に予算が回らなくなります。

この当時の石鹸のように、まだ市場が育っていない場合は、自分たちが相場を決めることができるわけで、長瀬富郎は値段でアメリカ製と安売り競争をするよりも、品質やブランドで消費者を啓蒙し、顧客に信頼される高品質な製品を提供することを信条としたのです。

その結果、花王石鹸は高級ブランドとしての地位を確立しました。

もちろん、価格もふっかけているわけではなく、当然品質に裏打ちされたものになっています。

花王石鹸は、1904年にセントルイス万博で名誉銀杯を受賞し、1910年にはシアトル万博で金杯を獲得しました。

つまり、値段相応に品質からも、アメリカ製を国際的に凌駕したのです。

この長瀬富郎の戦略は、石鹸の普及を通じて日本人の衛生観念を大きく変える契機となりました。

当時の日本では、感染症が蔓延することが多かったため、石鹸の普及は公衆衛生の向上に寄与したのです。

長瀬は、事業は社会に役立つものでなければならない」という理念を持っていました。

この考え方は、現在の花王の企業哲学にも受け継がれ、現在の花王は、石鹸だけでなく、化粧品、家庭用製品、産業用化学品など、家庭にも企業にも貢献すべく幅広い分野に事業展開しています。

「社会に役立つもの」という考え方も、成功者・自己実現者の方程式ですね。

ホワイト、赤箱、青箱……


花王石鹸というと、月のマークとともに、「クリームみたいな石鹸」という、花王石鹸ホワイトの宣伝コピーが印象に残ります。

私が少年の頃は、栗原小巻がCMに出てましたね。

Xを見ると、同じようなポストがたくさん出てきます。

我が家では、花王石鹸は、赤箱と青箱を使っていますが、最近はちょっとだけ安い青箱が多いかな。


石鹸のほかには、スキンケア製品(ビオレ、キュレル、ソフィーナ)、ヘアケア製品(メリット、アジエンス、セグレタ)、ボディケア製品(ビオレu、アトリックス)、化粧品(カネボウ、ルミコ、RMK、SUQQU)、家庭用製品(アタック、ハイター、マジックリン、キッチンハイター)、医薬品・健康製品(ピュオーラ、リリーフ)ど多彩です。

そのほか、医薬品やヘルスケア製品も展開しています。

みなさんは、花王製品は使われていますか。

K10E初代長瀬富郎伝服部之聰花王石鹸五十年史編纂委員会昭和15年花王石鹸創立者KAO
K10E初代長瀬富郎伝服部之聰花王石鹸五十年史編纂委員会昭和15年花王石鹸創立者KAO

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