漫画で読む文学『山月記』(原作/中島敦、漫画/だらく)は、自己愛と過剰な自尊心で社会と切れた「意識高い系」の成れの果てを描いた

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漫画で読む文学『山月記』(原作/中島敦、漫画/だらく)は、自己愛と過剰な自尊心で社会と切れた「意識高い系」の成れの果てを描いた

漫画で読む文学『山月記』(原作/中島敦、漫画/だらく)は、自己愛と過剰な自尊心で社会と切れた「意識高い系」の成れの果てを描いた物語です。主人公は虎になるのですが、2度と人間社会に戻れない悲劇的な結末はなぜ起こったのかが強い共感を呼んでいます。

またまた、だらくさんの漫画の紹介です。

だらくさんは、青空文庫(著作権フリーになった作品のアーカイブサイト)入りした名作を、『漫画で読む文学』シリーズとしてKindle用に漫画化しています。

これまでにも、太宰治原作『走れメロス』、宮沢賢治原作『葉桜と魔笛』『注文の多い料理店』、芥川龍之介原作『蜜柑』などをご紹介しました。

今回の『山月記』は、李徴という男が主人公です。

自分は詩人の才能がある、といって家族がいるのに官吏の仕事をやめ、社会と切れて詩の創作に熱中したもののうまくいかず、前の職場に戻ったものの、かつての同期は出世し、後輩にもペコペする自分のプライドが許さず、またしても脱落。行くところもなく、気がついたら虎になって人間社会には戻れなくなっていた、という話です。

物語の後半は、かつての同僚だった袁イ参(えんさん=さんはにんべんに参)と再会し、自分が虎になった経緯や現在の心境を語る会話で構成されています。

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臆病な自尊心と尊大な羞恥心が自分を虎にした

舞台は昔の中国、唐の時代です。

主人公の李徴は、科挙試験(日本で言うキャリア公務員)に合格するほどの秀才でしたが、自信家であり、自分は官僚社会でくだらない上司にペコペコするような小さな器ではないと考え、かねてから才能を信じていた詩人として名声を得ようとしました。

しかし、詩人の道は険しく、妻子を養うため再び下級官吏の職に就くものの、そもそも自尊心の高さでキャリア公務員をやめたわけですから、プライドの許さない日々が続いたため、出張した際にストレスが爆発して発狂して、そのまま行方知れずになってしまいました。

翌年、李徴の旧友で監察御史(官吏を監察する仕事)となっていた「えんさん」は、旅の途上で人食い虎に襲われかけます。

ところが、虎は「えんさん」を見るとはっとして茂みに隠れ、「あぶないところだった」と呟きます。

「その声は、まさか」

「えんさん」は虎に、「我が友、李徴子ではないか」と声をかけ、虎は肯定します。

李徴は、自分が虎になった経緯を話し、人間の心が消える苦しみを告白します。

李徴は、「己がすっかり人間でなくなってしまう前に、ひとつ頼んでおきたいことがある」として、まだ記憶に残っている詩を伝録してほしい。心を狂わせてまで執着したものを、一部なりとも後代に伝えないでは死んでも死にきれない、と言いました。

そこで、詩を部下に書き取らせた「えんさん」ですが、その評価は……

「作者の素質は第一流に属するものであるが、第一流の作品となるのには非常に微妙な点において欠けるところがある」

李徴は、自分が虎になった理由に思い当たる点があるとし、それは自身の臆病な自尊心、尊大な羞恥心、またそれゆえに切磋琢磨をしなかった怠惰のせいであると告白しました。

どういうことか。

「自分はすごい」という自尊心を守りたいため、仲間の批評は受け付けず、選外の屈辱を経験したくないため文学賞や雑誌投稿のたぐいは応募せず、自分が傷つかない自己満足を守り続けたのだといいます。

己は次第に世を離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を回太らせる結果となった。

人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが各人の性情だという。

己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ……と。

李徴は、妻子に「己はすでに死んだ」と伝えること、生活に困ることのないよう配慮して欲しいと依頼して、2人は今生の別れをしました。

やらないのに、ヤった者の自己実現は得られない

自己愛性パーソナリティ障害、認知的不協和、意識高い系……

客観的根拠もないくせに、「自分は社会でもっと高く評価されるべき人間であると思い込む」病の人は、現代社会にもありふれた存在としてたくさんいますよね。

かつての身分社会と違い、現在は努力や学歴など、一見自己責任である「実力」社会のため、余計に社会の荒波と向き合わず、「努力しない言い訳」に逃げ込む人がいます。

でも、結局そのような自己正当化は社会から切れてしまうことになる、という厳しい話が本作ですが、作品が発表されたのは、まだ事実上の身分社会が残る1942年なんですね。

それが、こんにちまだ十分に通用する教訓が評価をされるというのは、いくら戦後科学や倫理など社会が発展しても、人間(の心)というのはそう簡単に変わらないということなのかもしれません。

私は、いつも「人生ヤるか、やらないか」だ、とエラソーに書いていますが、誤解のないように一言すると、それは「ヤるっきゃない」という進軍ラッパではありません。

ヤるものにはそれに応じた人生があり、やらないものはまたそれに応じた人生が待っている。

どちらを選ぶかはその人の自由だ、ただしどういう理由だろうがそれは自分で選んだ人生なのだ、ということを言いたいのです。因果応報、因縁生起です。

やらないくせに、嫉妬や認知的不協和でヤッた人をとやかく言ったり、やらないことを正当化したりするのは道理がない「引かれ者の小唄」だよ、という話です。

ヤキモチ焼いたり、文句言ったりするぐらいなら、自分が「ヤる」方になるしかないんだよ、ということです。

本作は、その道理のない「引かれ者の小唄」を、「虎になる」という衝撃の展開で示したのだと思います。

以上、漫画で読む文学『山月記』(原作/中島敦、漫画/だらく)は、自己愛と過剰な自尊心で社会と切れた「意識高い系」の成れの果てを描いた、でした。

漫画で読む文学『山月記』 - 中島敦, だらく
漫画で読む文学『山月記』 – 中島敦, だらく

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