G・馬場 A・猪木 宿命のライバル 永遠の抗争 過去・現在・未来(鈴木正一著、都市と生活社)は、1980年代前半まで2人の歩みを記す

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G・馬場 A・猪木 宿命のライバル 永遠の抗争 過去・現在・未来(鈴木正一著、都市と生活社)は、1980年代前半まで2人の歩みを記す

G・馬場 A・猪木 宿命のライバル 永遠の抗争 過去・現在・未来(鈴木正一著、都市と生活社)は、1980年代前半までの2人の歩みを書き留めた書籍です。昭和プロレスとは何かが思い起こせる、リファレンスマニュアルといえる一冊です。

『G・馬場 A・猪木 宿命のライバル 永遠の抗争 過去・現在・未来』は、鈴木正一さんが都市と生活社から上梓した書籍です。

鈴木正一さんというのは、プロレスマニアではお馴染みの方です。

日刊スポーツの記者から、月刊プロレスの顧問に。

全日本女子プロレス中継の解説もされていたかな。

初版が1983年12月ですから、かなり昔ですが、それだけに「昭和プロレス」についてのリファレンスマニュアル的な価値があります。

内容は、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の、入門前から昭和58年くらいまでの出来事を列挙しています。

ね、資料的価値はあるでしょう。

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即戦力の馬場と時間がかかる猪木とを見定めた力道山

最初、私はタイトルを見て、あまり期待はしていませんでした。

いや、ジャイアント馬場がいたからアントニオ猪木がいたことは間違いなく、途中からはアントニオ猪木がいて、ジャイアント馬場がいる状態にもなりましたから、2人の生き様をタイムランで追うのはいいのです。

ただね、プロレスファンは、「馬場猪木」、狂信的なマニアに至っては「猪木馬場」と、序列をひっくり返して併記し比較したがるのですが、いくら同時期入門したからと言って、経歴も年齢も全盛期もプロレス観も違う2人を、どにかく同じ土俵で「どっちが上だ」と比較するのは、私はバカバカしいと思っています。

まあ、馬場と猪木、どっちが勝つかというのは、何にせよマニアがみんなで参加できる楽しい話なのかも知れませんけどね。

でも、本書を読んでそれは杞憂に終わりました。

「2人の生き様をタイムランで追う」だけで、やらずもがなの比較などは一切ない、誠実な書き物でした。

タイトル通り、表紙カバーには、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の推薦の言葉が出ています。

最初にカラーページがあり、写真が何点か出ています。

目次は、以下のとおりです。

  1. 日本プロレス入門、馬場22歳・猪木17歳
  2. 1 35年4月11日異例の同時入門発表
    2 尾を引いたデビュー戦の明暗
    3 スターダムを歩く馬場猪木との差は大きく開いた
    4 昭和36年ブラッシーに挑戦の馬場
    5 昭和36年馬場MSGでサンマルチノを降す
    6 前座猪木は力道山の猛シゴキに耐えた
    7 馬場のNWA挑戦はなぜか日本で“禁句”
    8 猪木 スター馬場〟に地だんだ
    9 猪木必死の追走

  3. 力道山の死ーそして改たに初まる2人のライバルレース
  4. 10 急成長猪木、馬場の再渡米に切歯扼腕
    11 猪木闘志新たに渡米
    12 昭和38年海隔てスターレース展開
    13 猪木本領発揮の海外転戦
    14 豊登失脚馬場時代の到来
    15 馬場、鉄人破インタナショナル王座防衛
    16 激動! 41年上半期〟
    17 猪木、馬場に挑戦のノロシ
    18 エース猪木〝獅子奮迅〟の闘いも・・・
    19 昭和49年猪木、日本プロレスに突如復帰
    20 無敵の”B・Iコンビ誕生
    21 馬場・猪木、インタ・タッグ選手権奪回
    22 猪木に不運インタ・タッグ選手権欠場雌伏の時代

  5. 馬場・猪木、真っ向ライバルレース
  6. 23 ライバルレース真っ向勝負スタート
    24 ドリー迎え馬場が激突
    25 馬場を追い越せ燃える猪木の周辺
    26 絶頂!! 猪木 両手に花〟
    27 猪木馬場に破天荒の挑戦
    28 波乱!猪木日本プロレス改革へ

  7. 4団体入り乱れ、プロレス戦国時代
  8. 29 猪木新日本プロレス設立
    30 馬場も日本プロレス離脱昭和47年
    31 「プロレス戦国時代」到来
    32 夢と消えた日ブロー新大合併劇
    33 猪木、坂口の黄金コンビ1年5ヶ月ぶり復活
    34 強力助っ人馬場にヘーシンク、猪木にテーズ・ゴッチ
    35 48年12月10日東京体育館
    猪木悲願のタイトルNWFヘビー級奪取
    36 猪木ー小林昭和49年3月18日
    他団体トップ同士が激突
    37 昭和49年12月2日馬場、ブリスコ破り
    初のNWA世界王者
    38 猪木第2回W・リーグ戦
    馬場第3回C・カーニバルともに連覇

  9. 猪木、格闘技世界一決定戦
    ー形を変えた2人の闘い
  10. 39 動乱の昭和50年猪木、アリに挑戦表明
    40 百田家が猪木に絶縁声明
    41 「プロレスは最強の格闘技」を証明
    42 「世界の猪木」への路線ひた走る
    43 猪木 「格闘技世界一決定第3戦」て大巨人撃破
    44 猪木、ウエップナーを格闘技戦で破る
    45 世界最強タッグ戦で馬場、鶴田組が初優勝
    46 猪木の一騎打ち提案を馬場了承

  11. 遂に闘わなかった2人。
    新時代を向えたプロレス
  12. 47 昭和55年2月猪木、ウィリアムスと凄絶死闘
    48 負傷の猪木第3回MSGシリーズ闘魂のV3
    49 全日新日 タッグ・リーグ大戦争”の火ぶた
    50 火噴く引き抜き合戦”戦国プロレスへ突入!
    51 国際プロ崩壊興行戦争の犠牲
    52 頂点に達した企業戦争”
    53 移籍の外人ヒーローが人気の活力に
    54 明暗くっきり気を吐く馬場
    55 新日の対抗戦申し入れ空発
    56 史上初!同日・同所の昼夜興行
    完 「生涯レスラー」 馬場「花と散る」猪木

まあ、マニアであれば、だいたい内容はわかるかもしれませんね。

ただ、すでに知られている話をまとめているだけでなく、鈴木正一さんの当時の回顧録も含まれます。

たとえば、ジャイアント馬場とは文通をしていたようですね。

ひとつだけ注文をつけると、「尾を引いたデビュー戦の明暗」のところ。

猪木さん曰く、ジャイアント馬場には、誰でも勝てる桂浜(田中米太郎)をあてて、自分(アントニオ猪木)には、絶対勝てない先輩の大木金太郎をあてて差をつけたと。話ね。

ここは、『史論ー力道山道場三羽烏』(辰巳出版)という本で事実上否定されていますよね。

同書によると、桂浜は当時、序列的には決して最弱ではなく、一応大木金太郎には勝っていた。

そして、大木金太郎は、実はそのアントニオ猪木戦が初勝利だったという。

つまり、むしろ馬場正平のほうが格上の相手だったのです。

もっとも、今回鈴木正一さんはその点も注釈付きで、桂浜は馬場に負けてやったんだと書いています。

ですから、アントニオ猪木の言い方がプロレスタブーのフイルターがかかっていたから不正確なんで、要するに、馬場には負けてくれる桂浜をあてられ、自分には負けてくれるどころか初勝利を狙ってガチンコを仕掛けてくる大木金太郎だったといえば、わかりやすかったんです。

でもそれは、差別とか「尾を引く」とかいうことではなく、そもそもショービジネスの何たるかがわかっていたプロ野球出身で身体も即戦力だった馬場と、世間知らずで未成年で身体のサイズから言ってそのままでは稼げない猪木の違いを考えれば、あったりまえのマッチメイクでしょう。

だったら、逆にしたら逆の展開になりましたか。

桂浜が猪木を勝たせて、若手ごぼう抜きの格付けをしてやり、アメリカに出したら、馬場のようにすぐにメインエベンターになったんですか。

馬場に無用な試練を与えて国内で腐らせていても、もったいないと思いませんか。

即戦力の馬場と、時間がかかる猪木。

力道山が、それを見きわめたというだけの話ではないのでしょうか。

ジャイアント馬場とアントニオ猪木がもし戦ったら……

それで、先程の話ですが、「馬場と猪木はどっちが勝つ?」というやつね(笑)

まあ、「どちらのリングで行われるか」がすべてですよね。

プロレスって、そういうものですよね。

全日本なら馬場の勝ち。新日本なら猪木の勝ち。

それだけのことです。

でも、それをいってしまうと、身もふたもないのですよね。

まあ、かりに新日本、全日本が出来ていなくて、2人がずっと日本プロレスという同じリングで現役だったらという前提で考えると、

1.1970年代中盤まではジャイアント馬場
2.1970年代後半は馬場が引退するか、もしかしたら勝ち負けを繰り返し最終的にアントニオ猪木か

かな。

プロレス鬼』では、一応1980年代前半でも、ジャイアント馬場が勝つことになっていますね。

鈴木正一さんが本書で書いているように、やはり日本プロレスの隆盛を長く支えてきたのは、ジャイアント馬場なんです。

ただ、ジャイアント馬場自身は、38歳で引退するつもりだったと述べているわけですよね。

何しろ、全日本プロレス設立前の時点で、生涯分のお金は稼いだ、と元子夫人は述べていましたからね。

たぶん、それは本当だと思います。

ジャイアント馬場の「38歳」というのは、1976年。

日本の序列重視から見て、それまではジャイアント馬場だと思います。

あまり知られていなことですが、ジャイアント馬場は、アメリカで活躍して帰国してからも、下駄の芳の里にコロッと負けていましたよね。12戦全敗。

下駄で殴られた上に、スモールパッケージホールドかなんかで(笑)

あの豪快なチョップやキックで、外国人レスラーを倒していたジャイアント馬場が、そんな負け方おかしいと思いませんか。

日本人の序列の壁です。

ただ、その頃は、力道山や豊登がいた時代で、ジャイアント馬場がトップレスラーになってからは、吉村道明と対戦しても吉村道明は負けましたけどね。

つまり、それだけ「トップレスラー」という格は重いのです。

ですから、ジャイアント馬場が負けずに引退して、「トップ禅譲」の可能性はあったと思います。

もしくは、ジャイアント馬場が外国人レスラーに負けて、アントニオ猪木が雪辱してインターナショナル選手権が間接的に移動する、ということもあったかな。

ただ、その時点でのプロレス人気などを考え、ジャイアント馬場が最後のご奉公で直接の負け役を引き受けた可能性は絶対にないとはいえません。

げんに、テレビ朝日の人が回顧録で、「実は馬場が負ける予定で馬場猪木戦の計画があった」ということを書いていますよね。

ジャイアント馬場は、職業としてのプロレスでジャイアント馬場を演じているという割り切りがあるので、会社がそう決めればそうするでしょう。

ただ、それは(国内)引退のときで、それをやったら、もう日本のリングに上がることはなかっただろうと思います。

自分の顔を立ててもらう負け方をして、ハワイかどこかでレスラー人生の余生を送る、という感じだったのではないでしょうか。

でもね、たぶんそうなると、アントニオ猪木は、どうかな。

たとえ、シンやハンセンのようなレスラーが出てきていい勝負しても、「新日本プロレスのアントニオ猪木」ほど輝いたかどうか。

結局、「新日本プロレスのアントニオ猪木」は、シンやハンセンなどの対戦相手の背後に、「全日本プロレスのジャイアント馬場」を見ていたんじゃないかと思います。

その背後の敵がいなかったら、そこまで輝けていたかどうかは疑問です。

だからやっぱり、現実、すなわち新日本プロレスと全日本プロレスで張り合っていた現実の姿こそが、もっともよい形だったのかも知れませんよ。

以上、G・馬場 A・猪木 宿命のライバル 永遠の抗争 過去・現在・未来(鈴木正一著、都市と生活社)は、1980年代前半まで2人の歩みを記す、でした。

宿命のライバル G・馬場 A・猪木 永遠の抗争 過去・現在・未来
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