社会経験こそが最高の教科書、教育の「当たり前」を覆すこれからの学びのあり方。教員免許のルールの見直し提案、炎上しているが……

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社会経験こそが最高の教科書、教育の「当たり前」を覆すこれからの学びのあり方。教員免許のルールの見直し提案、炎上しているが……

自民党の小林鷹之氏が広域通信制高校・N高等学校の生徒によるインタビューで語った「教員免許ルールの撤廃」という提言が、SNSを中心に激しい炎上を招いています。

多様な実務経験を持つ退職者が、自らの言葉で仕事の誇りや苦しさを伝える教育が必要だという同氏の主張に対し、ネット上の反応は冷ややかです。

「実務経験を伝えるなら外部講師で十分だ」「無免許教員が増えれば学力低下を招く」といった懸念は、一見正論に聞こえます。しかし、教育制度の歴史的背景を紐解く専門家として言わせていただければ、この議論を「入り口(免許の有無)」だけで終わらせるのはあまりに浅薄です。

本稿で光を当てたいのは、議論のさらに一歩先にある、ソースに基づいた「不都合な真実」です。

それは、現役教員、特に指導的立場にあるベテラン層における「質の格差」と、制度廃止によってもたらされた「知見のアップデート停止」という、日本の教育現場が抱える深刻な機能不全なのです。

かつての教員免許は「片手間に取れる」ものだった?


現代の学生が教員免許を手にするまでの道のりは、かつてとは比較にならないほど過酷です。ICT教育の活用、特別支援教育の深い理解、さらには小・中学校免許取得に必須の「介護等体験(計7日間)」など、履修項目は激増しています。

4年次には「教職実践演習」で適性を厳格に問われるなど、いくつものハードルを越えなければ教壇には立てません。

しかし、現在現場を仕切る50代以上のベテラン層が免許を取得した時代、その難易度は劇的に低いものでした。ソースによれば、かつての状況は以下のように喝破されています。

大学を真面目に受講・卒業できる水準であれば、片手間に取れるものでした。だから、大量のデモシカ教師が採用されました。

「先生にでもなろうか」「先生にしかなれない」という、いわゆる「デモシカ教師」が大量に流入した時代。

現在の若手が血の滲むような努力で獲得する免許と、かつての層が「片手間」で手にした免許。その重みと前提となる知識には、もはや埋めがたい「構造的な歪み」が生じているのです。

「更新制の廃止」がもたらした、ベテラン教師のアップデート停止

教育のあり方を根本から揺るがした大きな転換点がありました。2000年の「社会福祉基礎構造改革」および「支援費制度への法改正」です。

これにより、日本の福祉は「行政が決める保護」から「当事者が選ぶ自立と選択」へとパラダイムシフトを遂げました。

こうした時代の変化に教員を適応させるべく、2009年には「教員免許更新制」が導入されました。10年ごとに30時間の講習と試験を課し、インクルーシブ教育の現状や最新の指導法を強制的にインストールする装置です。

しかし、現場の多忙感を理由に、この貴重なアップデート機会は2022年に廃止されてしまいました。

これが何を意味するか。2000年前後の大改革や最新の教育心理学を「知らない」ベテラン教師が、数十年前の古い地図を持ったまま、現代という複雑な海を航海する子供たちを導いているという、極めて「まずい状況」が放置されているのです。

善意が仇となる?「褒めて育てる」の落とし穴と教育の今

教育手法の「賞味期限」は、私たちが想像する以上に短くなっています。例えば、長年、教育現場の聖域とされてきた「褒めて自己肯定感を高める」という手法。

最新の研究では、これが過剰になると子供が「評価を過剰に気にする」「失敗を恐れて挑戦しなくなる」といった深刻な副作用を生むことが明らかになっています。

また、障害の有無に関わらず共に学ぶ「インクルーシブ教育」も、国際基準との乖離や現場体制の不備など、常に新たな課題に直面しています。

ベテラン教師が、かつての「正解」を信じ、善意で行う指導が、現代の知見に照らせば子供の成長を阻む「毒」になり得る。この残酷な現実に向き合わず、

アップデートを拒むことは、教育者としての怠慢に他なりません。教育界の到達点はめまぐるしく変化しており、現場には常に「最新の今」と向き合う緊張感が不可欠なのです。

教員免許は「撤廃」ではなく「6年制」へ?

小林氏の「免許撤廃」は極論ですが、教育現場の閉鎖性を打破すべきという視点には一理あります。ただし、解決策はハードルを下げることではありません。

むしろ「入り口」をより専門化し、「入ってから」の質を担保する仕組みの構築こそが急務です。

具体的には、教育学部を医学部や薬学部と同様の「6年制」に格上げすることを提案します。また、非教育学部(法学部や文学部など)からの志望者に対しては、司法試験における「予備試験」のようなワンクッションを設け、資質の担保と多様性の確保を両立させるべきです。

さらに、大学教授のように、初等・中等教育の教員にも「サバティカル(長期休暇)」制度を導入すべきでしょう。

数年に一度、学校という狭い世界を離れ、実社会の空気を吸いながら再教育を受ける。これこそが小林氏のいう「実務経験の活用」への、現役側からの強力なカウンターとなります。

人手不足に対しては、小林氏の提案を逆手に取り、在野の優秀な人材を「時間講師」として戦略的に登用すればよいのです。

私たちが本当に求める「理想の教師」とは

教員免許のルールを巡る議論の本質は、ライセンスの有無という形式論ではありません。真の問題は、一度手に入れた特権に安住し、学びを止めた人々が、未来を担う子供たちの前に立ち続けているという構造にあります。

教育とは、過去の遺産を無批判に受け渡すことではありません。更新され続ける「未来への適応」を身をもって示す営みです。資質に欠ける人物を安易に採用する現状は論外ですが、同時に「一度免許を取れば一生安泰」という風潮も、この国から一掃しなければなりません。

あなたが子供を預けたいのは、数十年前の知識を守る「ルールの番人」でしょうか。それとも、社会の変化を敏感に察知し、自らも学び続ける「実践者」でしょうか。日本の教育の未来は、免許という「入り口」の議論の先にある、継続的な研鑽の義務化にこそかかっています。

なぜ52歳の会社員が働きながら教員免許を取れたのか: ~通信制大学での2年間の学びと、挑戦を支えたリアルストーリー~【入学決意編】 - 楠 隆, Contigo編集部
なぜ52歳の会社員が働きながら教員免許を取れたのか: ~通信制大学での2年間の学びと、挑戦を支えたリアルストーリー~【入学決意編】 – 楠 隆, Contigo編集部

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