人文科学とは文学や哲学など、社会科学とは法学や経済学などのことを指しますが、それらは科学ではないと言い張る人がいます。しかし、それは学問としての否定につながるかなりの暴論だと思いますが、本当にそれらは科学ではないのでしょうか。
政府は7日、日本学術会議を2026年10月から国の特別な機関から、特殊法人に移行する新たな法案を閣議決定したと報じられました。
日本学術会議というのは、「学者の国会」ともいわれ、科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ったり、国内外における科学者の意見をまとめ、発信したりすることを目的とした団体です。
会議のメンバーは、人文・社会科学、生命科学、理学・工学など、幅広い分野の科学者で構成されています。
委員の任命において、当時の菅総理が慣例に反して、国策に批判的な学者を任命しなかったことが問題になり、結果的に菅政権が短命だった遠因となりました。
この写真は2020年10月、当時首相であった菅義偉が宇野重規ら日本学術会議の会員候補6人の任命拒否に市民は抗議の声を上げた。菅首相は政府の意に沿わない学者を拒否したのだ。これでは明治憲法下の滝川事件(1933)の構図と変わらない。学者を政府の支配下に置きたいのだ。 pic.twitter.com/LpUkgOYfF2
— 東京散歩人 (@wysvoice) March 9, 2025
で、今日はそのことではなく、関連した別の話題を挙げます。
当時、そのことをブログで取り上げたところ、
「『人文科学』や『社会科学』なんて、そもそも科学ではないんだから要らない。科学なんて呼ぶな」
というコメントをした人がいました。
その人は、親類がみな有名な大学を出ていて、自分だけ出ておらず肩身の狭い思いをしていて、その親類たちがみな文系だったので、その人たちを否定するために、常々そう言い募る人でした。
要するに、おおもとは、自分が学校を出てないだけの嫉妬とコンプレックス……
その人の志が低いのは措くとして、では人文科学や社会科学は、本当に科学ではないのでしょうか。
なぜ法学や文学も「〇〇科学」と呼ばれるのか
結論から書くと、「科学」は一般には自然科学のことを指します。
ところが、経緯はわからないのですが、一部物理学者の間では、「物理学帝国主義」といって、物理学こそ学問の頂上にある真の科学だ、という自負があり、それによると文系などは論外、心理学も科学ではない、さらに工学者のことも「科学者」ではなく「エンジニア」と呼ぶことすらあります。
つまり、その伝で言えば、文系諸分野はもちろん、「工学」も科学ではないことになります。
武田邦彦さんという、毀誉褒貶ある工学者YouTuberがいますね。
あの方は、「逆張りの武田」といわれるほど、環境問題、原発問題、コロナ禍などで、物理学者たちと正反対の意見を述べてきました。
私はあの「逆張り」は、長年、物理学者から見下されていた、「復讐心」や「対抗心」もあるのではないかな、という気がしています。
で、話を戻すと、なぜ、法学や経済学や文学や哲学なとが「科学」といわれるのか。
これらは、「科学」ではなくても、「科学的」なテーマの探求方法が採られているからだと思います。
高等教育の学位は、考察に対する実証、論証、議論などを経た、つまりすべて「科学的」な完成度を評価されたものです。
1990年以降、日本では大学院の専攻の拡大が行われ、学位の数も増えました。
環境マネジメントとか、人間科学とか、従来の学問の枠を超えた、文系と理系の融合した新しい学際分野が誕生しましたが、「自然科学だけが科学だ」ということなら、文系と理系の融合なんてありえないでしょう。
私も経験しましたが、書いた論文は、教授陣の口述諮問があるだけでなく、公聴会の形式を取って、学外にも発表します。国立国会図書館にも所蔵されます。
ですから、「科学的」論文の体をなしていないものは、バレてしまうのです。
不必要な「科学的」研究などない!
いうまでもありませんが、物理学だけで世の中のすべてが解決できるわけではありません。
たとえば、自然科学は人の死に寄り添えません。
「あなたがこの世に生まれてきたのはなぜか。 そしてあなたがやがて死んでいかなければならないのはなぜか。 そういう問いに、生命科学は答えることができない。
そして、今ここで生きているあなたの人生の意味とは何なのか。 人生の目的とは何なのか。 そういう「いのち」の問い、「人生」の根本問題に、自然科学は何も答えてくれないのである。(森岡正博『宗教なき時代を生きるために』(法蔵館)1996年初版、2019年改訂版、pp.42-43)
心理学者の河合隼雄さんもこう言っています。
「なぜ私の恋人が死んだのかというときに、自然科学は完全に説明ができます。『あれは頭蓋骨の損傷ですね』とかなんとかいって、それで終わりになる。しかしその人はそんなことではなくて、私の恋人がなぜ私の目の前で死んだのか、それを聞きたいのです。」(河合隼雄『河合隼雄その多様な世界: 講演とシンポジウム』 岩波書店、1992年、p.53)
先日ご紹介した池田清彦さんも、「科学は、人生の意味を説明できない」と述べています(池田清彦『正直者ばかりバカを見る』(角川書店)、1999年)
そんなときこそ、人の心の問題に取り組んでいる、文学、心理学、哲学、仏教学などのデバンなのです。
誤解のないよう注釈をつけておくと、仏教学とは、信仰するための学問ではありません。仏教とはなにか、人がどうして仏教に帰依するのかなどを、哲学や史学や行動科学などから探求する学際系学問です。そこんとこ間違えないでねー。
結論。学問諸分野が手を携えて、自然、社会、個々の心を明らかにしていくことが大切なのであって、何が科学と呼べるか呼べないか、学問としてどっちが上か下か、などという「問題意識」は、全く持って愚の骨頂だと思いますが、いかが思われますか。
完全版 宗教なき時代を生きるために―オウム事件と「生きる意味」 – 森岡正博
モラルの起源――実験社会科学からの問い (岩波新書) – 亀田 達也
人文科学の擁護 – 村瀬 裕也
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