人文科学とは文学や哲学など、社会科学とは法学や経済学などのことを指しますが、それらは科学ではないと言い張る人がいます。

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人文科学とは文学や哲学など、社会科学とは法学や経済学などのことを指しますが、それらは科学ではないと言い張る人がいます。

人文科学とは文学や哲学など、社会科学とは法学や経済学などのことを指しますが、それらは科学ではないと言い張る人がいます。しかし、それは学問としての否定につながるかなりの暴論だと思いますが、本当にそれらは科学ではないのでしょうか。

政府は7日、日本学術会議を2026年10月から国の特別な機関から、特殊法人に移行する新たな法案を閣議決定したと報じられました。

日本学術会議というのは、「学者の国会」ともいわれ、科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ったり、国内外における科学者の意見をまとめ、発信したりすることを目的とした団体です。

会議のメンバーは、人文・社会科学、生命科学、理学・工学など、幅広い分野の科学者で構成されています。

委員の任命において、当時の菅総理が慣例に反して、国策に批判的な学者を任命しなかったことが問題になり、結果的に菅政権が短命だった遠因となりました。


で、今日はそのことではなく、関連した別の話題を挙げます。

当時、そのことをブログで取り上げたところ、

「『人文科学』や『社会科学』なんて、そもそも科学ではないんだから要らない。科学なんて呼ぶな

というコメントをした人がいました。

その人は、親類がみな有名な大学を出ていて、自分だけ出ておらず肩身の狭い思いをしていて、その親類たちがみな文系だったので、その人たちを否定するために、常々そう言い募る人でした。

要するに、おおもとは、自分が学校を出てないだけの嫉妬とコンプレックス……

その人の志が低いのは措くとして、では人文科学や社会科学は、本当に科学ではないのでしょうか。

なぜ法学や文学も「〇〇科学」と呼ばれるのか

結論から書くと、「科学」は一般には自然科学のことを指します。

ところが、経緯はわからないのですが、一部物理学者の間では、「物理学帝国主義」といって、物理学こそ学問の頂上にある真の科学だ、という自負があり、それによると文系などは論外、心理学も科学ではない、さらに工学者のことも「科学者」ではなく「エンジニア」と呼ぶことすらあります。

つまり、その伝で言えば、文系諸分野はもちろん、「工学」も科学ではないことになります。

武田邦彦さんという、毀誉褒貶ある工学者YouTuberがいますね。

あの方は、「逆張りの武田」といわれるほど、環境問題、原発問題、コロナ禍などで、物理学者たちと正反対の意見を述べてきました。

私はあの「逆張り」は、長年、物理学者から見下されていた、「復讐心」や「対抗心」もあるのではないかな、という気がしています。

で、話を戻すと、なぜ、法学や経済学や文学や哲学なとが「科学」といわれるのか。

これらは、「科学」ではなくても、「科学的」なテーマの探求方法が採られているからだと思います。

高等教育の学位は、考察に対する実証、論証、議論などを経た、つまりすべて「科学的」な完成度を評価されたものです。

1990年以降、日本では大学院の専攻の拡大が行われ、学位の数も増えました。

環境マネジメントとか、人間科学とか、従来の学問の枠を超えた、文系と理系の融合した新しい学際分野が誕生しましたが、「自然科学だけが科学だ」ということなら、文系と理系の融合なんてありえないでしょう

私も経験しましたが、書いた論文は、教授陣の口述諮問があるだけでなく、公聴会の形式を取って、学外にも発表します。国立国会図書館にも所蔵されます。

ですから、「科学的」論文の体をなしていないものは、バレてしまうのです。

不必要な「科学的」研究などない!

いうまでもありませんが、物理学だけで世の中のすべてが解決できるわけではありません。

たとえば、自然科学は人の死に寄り添えません。

「あなたがこの世に生まれてきたのはなぜか。 そしてあなたがやがて死んでいかなければならないのはなぜか。 そういう問いに、生命科学は答えることができない。
そして、今ここで生きているあなたの人生の意味とは何なのか。 人生の目的とは何なのか。 そういう「いのち」の問い、「人生」の根本問題に、自然科学は何も答えてくれないのである。(森岡正博『宗教なき時代を生きるために』(法蔵館)1996年初版、2019年改訂版、pp.42-43)

心理学者の河合隼雄さんもこう言っています。

「なぜ私の恋人が死んだのかというときに、自然科学は完全に説明ができます。『あれは頭蓋骨の損傷ですね』とかなんとかいって、それで終わりになる。しかしその人はそんなことではなくて、私の恋人がなぜ私の目の前で死んだのか、それを聞きたいのです。」(河合隼雄『河合隼雄その多様な世界: 講演とシンポジウム』 岩波書店、1992年、p.53)

先日ご紹介した池田清彦さんも、「科学は、人生の意味を説明できない」と述べています(池田清彦『正直者ばかりバカを見る』(角川書店)、1999年)

そんなときこそ、人の心の問題に取り組んでいる、文学、心理学、哲学、仏教学などのデバンなのです。

誤解のないよう注釈をつけておくと、仏教学とは、信仰するための学問ではありません。仏教とはなにか、人がどうして仏教に帰依するのかなどを、哲学や史学や行動科学などから探求する学際系学問です。そこんとこ間違えないでねー。

結論。学問諸分野が手を携えて、自然、社会、個々の心を明らかにしていくことが大切なのであって、何が科学と呼べるか呼べないか、学問としてどっちが上か下か、などという「問題意識」は、全く持って愚の骨頂だと思いますが、いかが思われますか。

完全版 宗教なき時代を生きるために―オウム事件と「生きる意味」 - 森岡正博
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