スポーツは陸から海から大空へ水野利八物語(編集委員会編、ベースボール・マガジン社)。ミズノ(美津濃)創業者の生き様と功績

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スポーツは陸から海から大空へ水野利八物語(編集委員会編、ベースボール・マガジン社)。ミズノ(美津濃)創業者の生き様と功績

スポーツは陸から海から大空へ水野利八物語(編集委員会編、ベースボール・マガジン社)は、日本の代表的スポーツ用品メーカー・ミズノ(美津濃)を創業した水野利八の生き様と功績についてまとめています。ビジネスに必要な信頼はどうやって獲得したのでしょうか。(文中敬称略)

今日も国会図書館からです。

1974年初版です。

水野利八(みずの りはち 1884年(明治17年)5月15日 – 1970年(昭和45年)3月9日)は、ミズノ(美津濃)創業者です。。

本書冒頭の「推せんのことば」で、河野謙三参議院議長(当時)は、美津濃を「世界の四大スポーツ用品メーカー」と称しています(p.1)が、現在はシェアで言えば、Nike(ナイキ)、Adidas(アディダス)、Puma(プーマ)、Under Armour(アンダーアーマー)が四大メーカーです。

たぶん、Under Armourが新興勢力(1996年創業)なので、昔は三大メーカーに美津濃が続いていたのだと思います。

いずれにしても、それらに急追する、まさるとも劣らないほどの日本を代表するメーカーと解釈しましょう。

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接待と値引きをしない


水野利八は岐阜県大垣市に生まれます。

幼名は仁吉です。例によって改名しています。

殿様御用達で、武士ではなかったのですが苗字帯刀を認められていた棟梁の父親は、仁吉が9歳のときに早逝。

濃尾大地震の被災で仮住まいだった水野家は、やむを得ず仁吉が興文小高等科を中退。

仁吉は水野家を再興するという思いを抱いて、大阪へ丁稚奉公へ出ました。

薬種問屋・川崎屋で番頭まで昇格しますが、仁吉はここで2つのことを学びます。

接待と値引きをしない、ということです。(p.97)

「お客さんを接待しているうちに、遊びグセがつく。自分一人でも行くようになる。月給ではとても足りないから、店の金を使い込む。若い時、そんな失敗をした人をたくさんみてきました。だから美津濃では接待をご法度にしています」(p.96)

水野利八社長の頃は、日本が朝鮮戦争特需で復興目覚ましい頃ですから、経済も活性化され、接待に明け暮れる社用族で飲食遊興界は賑わっていたはずです。

その時代にご法度というのは、取引先からだけでなく自社の社員からも「変わった会社」「ケチな会社」などと思われたはずで、英断ではなかったかと思います。

値引きについても同様です。

「商売というもんは、品物に対する信用や。お客さんの方でも、あいつは値引きせんけど、ええ品物くれよる。結局は得や、ということで、ひいきにしてもらいました」(p.97)

いい商品をできるだけ安く、というのは本来いいことです。

しかし、いったん決めた額を簡単に変更してしまうのは、会社も、商品の価値も、信用されなくなるということなのです。

「安いから買う」のではなく、「価値があるから買う」と感じてもらうことが重要です。

1903年(明治36年)に京都・三高野球クラブの試合を見て、こんな面白い競技があったのかと「病みつきになった」(p.97)ほど野球の魅力に惹かれ、運動用品の商売を志します。

が、1905年、日露戦争に出征した際に戦場で肺尖カタル(結核の初期症状)を発病、長い闘病生活を送ります。

これは私もやりましたね。

私はよく健康診断で、肺尖部陳旧性印影を指摘されます。要するに結核の古傷です。

病床にあった仁吉は、「どんな小さい商いでもいいから、自分の足だけで一歩一歩、階段を上がっていくべきだ」(p.105)と考え、帰国後の1906年(明治39年)に、弟の水野利三と大阪市北区で「水野兄弟商会」を創業します。

当初は運動服を扱っていましたが、オーダーメードを始めて注目され、1913年(大正2年)からは野球用のグラブ、ボールの製造を始めました。

やはり、仁吉には野球に対する思いを自分の商売で実現したかったのです。

出征中に戦友と、「将来、実業人の野球チームで大会を開いてみたら面白い」(p.105)と言っていたのですが、1913年には「関西学生連合野球大会」(現在の夏の高校野球甲子園大会の前身)を開催しています。

さらに、戦友との日常で自分が実感したのは、「自分が知らなければならないたくさんの知識、学問がある」(p.106)ことでした。

仁吉は、大実業家になるためには、まず勉強しなければならないと考えました。

凡夫は、父親の早逝で進学できなかったことを呪うだけですが、仁吉は学校へいかなかった分、独学で追いつこうと努力しました。

そして、利八に改名するのですが、これは実は父親の名前でした。

店の名前も「美津濃商店」としました。

なぜ「水野商店」でなかったかというと、「将来、店が発展したとき、子孫以外の人材に立派な才能をもった人ができることも考えてますんや。私の出身が、美濃の大垣やいうことも、からませてますけど」(p.115)

個人商店に留めるつもりはなかったというわけです。

「戦友との交流」や猛勉強が役に立った


オーバーセーター、カッターシャツ、ボストンバッグ、ポロシャツなど、馴染みのある言葉を生み出したのも、美津濃です。

美津濃は単に製品を作るだけでなく、新しいライフスタイルやスポーツ文化を日本国内に浸透させることにも尽力しました。

その中で、製品にわかりやすく親しみやすい名前をつけることで、多くの言葉を広め、定着させたのです。

こうしたセンスは、前述の「戦友との交流」や「自分が知らなければならないたくさんの知識、学問」を積み重ねる中で、磨かれたのかも知れません。

学校を中退して奉公に入ったままその世界しか知らなかったら、たとえ番頭に出世したとしても、社会の動き(マーケティング)や文化的な価値観(トレンド)には敏感になれなかったでしょう。

「この道一筋」もすばらしいですが、他の世界を知ることも、決して無意味なことではないのです。

現在も同社の製品は多岐にわたりますが、愛用されているものはありますか。

スポーツは陸から海から大空へー水野利八物語 (1973年)
スポーツは陸から海から大空へー水野利八物語 (1973年)

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