ブッダが教える愉快な生き方(藤田一照著、NHK出版)は、人生を豊かにしてくれる「仏教の学び方」について解説しています。

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ブッダが教える愉快な生き方(藤田一照著、NHK出版)は、人生を豊かにしてくれる「仏教の学び方」について解説しています。

ブッダが教える愉快な生き方(藤田一照著、NHK出版)は、人生を豊かにしてくれる「仏教の学び方」について解説しています。本書は、「学びのきほん」シリーズとして、仏教の「学び」をヒントにすれば「愉快な人生」に近づくという啓蒙書です。

『ブッダが教える愉快な生き方』は、藤田一照さんがNHK出版から上梓した書籍です。

同社の「学びのきほん」シリーズとして、刊行されています。

本書は、そのKindle版を元に記事を書いています。

藤田一照さんは、東京大学教育学部教育心理学科を経て、大学院で発達心理学を選考しました。

しかし、「学校的な学び」ではなく、「オーガニック・ラーニング」で学びたいと28歳で博士課程を中退。

禅道場に入山し、曹洞宗で得度します。

本書では、人生を愉快に生きる学び方について書かれています。

仏教というと、厳しい修行に打ち込んで、「覚り(さとり)」とか「解脱」といった特別な体験を得ることを目指す神秘的な立場、というイメージがあるかもしれません。

しかし、著者はそのような仏教についてのイメージを、「本来の仏教のイメージとはかなりズレています」「それどころか、とてもシンプルで、日常生活に直結している」ものといいます。

その誤解を、本書で解いています。

目次です。

はじめに──「学びのきほん」を仏教に学ぶ
第1章 ブッダの「学び」とは
 「学び」の宗教/仏教をとらえ直す/ブッダの人生/老・病・死の苦しみ/出家までの?
 末/「学校的な学び」への違和感/「コントロール」の限界/「覚り」を開く/煩悩に気
 づける人/人生が変わる経験/禅の発見/仏教はシンプルで面白い
第2章 学ぶことは変わること
 学びの始まり/私たちは「縁起」に生きている/禅は常識への対抗/ブッダに会ったら
 ブッダを殺せ/なぜブッダは坐ったのか/「覚り」とは何か/生きることは学ぶこと/貧
 しい生活、豊かな人生
第3章 頑張らない坐禅
 坐禅に対する誤解/頑張らなくていい/道元の修行観/習禅から坐禅へ/「すること」か
 ら「在ること」へ/「する」から「しない」へ/全身心で知る/自己をならう愉しさ
第4章 愉快に生きるためのヒント
 学びが起こるためのヒント/触れてよく観る/受けたもう/思考や感情にとらわれない
 /閉じた吾我と開いた自己/不放逸のすすめ/解像度の高い眼を持つ/既知を手放す
おわりに── 自分なりの学びを実行しよう
ブッダ・仏教の学び方を知るためのブックガイド

本書は2022年11月9日現在、AmazonUnlimitedの読み放題リストに含まれています。

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仏教は「オーガニック・ラーニング」

本書は、仏教の本ではありますが、経典の解説や仏教の基礎知識についての本ではありません。

仏教には、私たちの人生を豊かにしてくれる「学び方」があり、それを伝えるための書籍です。

先に述べたように、本書は、人生を愉快に生きる「学び方」について書かれています。

人生を愉快に生きる学び方、とはどういうことか。

仏教の学びは、学校の授業のような「学び」とは様相が異なり、たとえるなら、赤ちゃんの学びのようなものだといいます。

生まれたばかりの赤ちゃんは、好奇心を持って周囲の物事に触れるうちに、いろいろなことを自然に身に着けていきます。

本人に学ぶという意識があるわけではなく、周囲の大人も特別に何かを教えようとは思っていません。

いつの間にか、自然に歩いたり話したりします。すべての活動が学びとなり、すべての体験が赤ちゃんを変えていきます。

それを著者は、「オーガニック・ラーニング」と呼んでいます。

一方、学校の学びは、科目ごとに教科書があり、学ぶべきことが決まっていて、教室で専門の先生が教える。

そういう条件のもとで、一生懸命勉強するのが「学校の学び」です。

仏教は、「オーガニック・ラーニング」なのだといいます。

オーガニック・ラーニングは、不可逆的に学びます。

赤ちゃんが歩けるようになってから、またハイハイに戻るでしょうか。

歳を取って足腰が弱れば話は別ですが、歩くことを覚えたら、それはそのまま身につきます。

つまり、ハイハイにとどまっていた「私」は、歩ける「私」になります。

お釈迦様は、生きることのすべてが修行になる、オーガニックな学びを選んだのです。

著者の藤田一照さんは、「学校的な学び」が得意で、東京大学、同大学院博士課程に進み、発達心理学を学んでいました。

しかし、確立されたやり方で先生から教わり、だんだん上手になって、最後に「はい、合格」と卒業して資格をもらう「学校的な学び」ではなく、「自分はどう生きるか」という人生の根源的な問題を、自分で考えたくなり仏門に入りました。

禅の修行僧(雲水)になって道場に入れば、住むところも食べるところも困りません。

一生そこで学んでいても、誰にも文句を言われません。

「これが自分の進むべき道だ」と確信した藤田一照さんは、大学院を中退して安泰寺(兵庫県)とう曹洞宗の禅寺に入門したのです。

確立されたやり方を学ぶのではなく自分で学ぶ

仏教の学びは、仏陀(ブッダ、お釈迦様)の「学び」から始まっているといいます。

仏教の開祖であるお釈迦様は、北インドに実在したゴータマ・シッダッタという王子です。

母親はシッダッタ児を生んで7日後になくなりましたが、王子様だけあって、物質的には何不自由なく育てられた「箱入り息子」でした。

ところが、人間が生きてゆく上で避けることの出来ない、「老・病・死」を自覚し、満たされた自分でもどうにもならないことに1人鬱々と考え込むことが多くなったといいます。

愚かなる凡夫は、みずから老いゆくもので、また、老いるのを免れないのに、 他人が老衰したのを見て、考え込んでは、悩み、恥じ、嫌悪している。われもまた 老いゆくもので、老いるのを免れない。自分こそ老いゆくもので、同様に老いるの を免れないのに、他人が老衰したのを見ては、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、 ――このことはわたくしにはふさわしくない、と言って。わたくしがこのように観 察したとき、青年時における青年の意気は全く消え失せてしまった。 (中村元選集第1巻『ゴータマ・ブッダ 釈尊の生涯』春秋社)
つまり、仏教の出発点には、生きることが苦悩であるという大きな問題の自覚があった、と著者は言います。

29歳で出家したシッダッタは、苦労を解決するための先生を探そうとしました。

そこで、瞑想を行い、すぐに高度な境地に達したのですが、「心を操作する単なるメソッドを習得するだけでは、シッダールタの抱えていた実存的問題の深みまで届かない」ため、すぐに離脱しました。

つまり、瞑想を行っているうちは成果があっても、瞑想をやめたら「心の状態」はもとに戻ってしまうからです。

そして、瞑想法修行も、やはり「学校的な学び」だったから限界を感じたのではないか、と著者は考えています。

すなわち、確立されたやり方を学ぶだけだからです。

次に、肉体をいじめ、さいなむことによって精神を浄化しようとする「苦行」の道へと進みました。

これも結局は同じことでした。

苦行で弱った体を癒やしたシッダッタは35歳ごろ、ガヤーという町の菩提樹の下で坐禅を始めました。

そして、7日間坐り続けた結果、「覚り(さとり)」を開いたのです。

生老病死は「思い通りにならない人生の絶対事実」

仏陀は、生老病死は、ドゥッカ(思い通りにならない人生の絶対事実)であるといいます。

なぜ思い通りにならないのか。

私たちは「縁起」として存在しているからだと著者は言います。

縁起というのは、宇宙のすべての存在が無量無辺の因縁によって相互に影響し合いながら存在しあっているという仏教の根本的ビジョンです。

縁起観といって、この世に存在するすべてのものごとには、原因(因)があり、それが何かの条件(縁)に合って、さまざまな結果(果)として現われます。 そして、その果は、必ず何らかの影響をおよぼします(報)。 これを『縁起観』というのは昨日ご紹介しました。

そして、私たちは、単独で孤立的に生きているのではなく、すべてのものとのつながりに支えられた縁起的存在というのは、昨日も『諸法無我』の教えであるとご紹介しました。

生老病死は、「生かされ生きている命のあり方」から必然的に出てくるものと著者はいいます。

私たちは、縁起という働きのネットワークからたまたま生まれた存在です。だから、そのネットワークを勝手に操作することは出来ません。私たちはあくまでも縁起の産物であり、主人ではないからです。

仏陀といえども生老病死の事実からは逃れることは出来ませんでしたが、「苦しみを乗り越える」すなわち受け入れることは出来ました。

むしろ縁起という真理を深く学ぶために、それにきちんと向き合って理解しようとしたと著者はいいます。

禅で覚る

著者は、禅宗といわれる曹洞宗で得度しました。

そこで、禅について多くの紙数を割いています。

仏陀は経典を学んだのではなく、ただ生きることを学びとした、と著者は言います。

その仏陀の生き方に倣おうというのが、禅の、そして仏教本来の立場であり、経典は参考書にすぎないといいます。

「覚り」の説明についてもご紹介しておきます。

著者は、「青虫が蝶になる」というたとえで説明しています。

「地を這う青虫は、二次元でしか世界を見ることができません。しかし、さなぎから羽化して蝶になると、三次元の世界を生きることができるようになります。青虫のように二次元で生きるのと、蝶のように三次元で生きるのとでは、人生の景色がまったく違うことでしょう。(中略)
このたとえでは、青虫は凡夫(迷っている者)、蝶は仏(覚者、目覚めた人)を表して います。つまり、私たちは誰でも、蝶、つまり仏になれるのです。ブッダがそれを証明しています。青虫である自分が見ているものとは別の、蝶の景色があることを知るだけでも、生き方が変わってくると思います。

もちろん、蝶になってからも、生きている限り学びは続くと著者は書きくわえています。

学びに終わりはないのです。

曖昧だから悪いわけではない

著者は、仏教について、こう述べています。

 現在の日本には、中国発祥の宗派もあれば、日本発祥の宗派もあり、複雑な様相を呈しています。宗派ごとに異なる教義がありますが、矛盾も含めてダイナミックに展開するのが宗教というものだと私は思っています。多様性があるのは入り口が広いということで、 悪いことではありません。
 とはいえ、さまざまな宗派があることは「仏教って難しい」と思われている要因の一つでしょう。また、お坊さん側に「自分たちは難しいことをしているんだ。人にできない修行をしているんだ。だから偉いんだ」という高踏的な意識が少なからずあり、一般の人々にわかりやすく説明する努力を怠ってきた傾向も否めません。
 本当の仏教は、難しいものではないのに、神秘のベールで隠してきてしまったのは、私たち僧侶の反省すべき点です。仏教はもっとシンプルで面白い修行(=オーガニックな学 びの生活)の道だということを、私は伝えていかなければならないと思っています。そこで、「ブッダのように修行して生きよう」という禅のシンプルな教えがぴったりくるのです。

「難しい」の中には、まさに「矛盾も含めてダイナミックに展開する」ところが、私にとってはまだ難解ですね。

科学的合理的というのは、エビデンス、すなわち実証性や再現性をきちんと見ますよね。

つまり、きっちりすっきりしている。

でも、宗教の話は、どこかで、曖昧さや、「そういうことにしておく」という前提がないと話が進まないことなどがあるので、なんかうさんくさい部分があることは否めません。

では、科学が万能かといえば、合理的だからこそ、未知のものに答えを出せない。もしくは新しい真実によって、これまで黒だったことが白にひっくり返るようなこともあります。

つまり、世界観としては不安定です。

私は、宗教と科学というのは、「狙っているところが違う」ものであり、どちらも「真実」としての一面を持っていると思うんですけどね。

昨日の、『まんが根本仏教』(古谷三敏/ファミリー企画著、地人館編集、佼成出版社)でもご紹介しましたが、たとえば『諸行無常』は、ヘラクレイトスの『万物は流転する』と言っているし、『諸法無我』は、ヘーゲルが、「諸事物が相互連関の内にありお互いに繋がりあって生成し消滅する」と言っていますね。

哲学の世界では、「真実は全体」という言い方もあります。

別に、どちらかの世界観だけを採れ、というオール・オア・ナッシングではないので、どちらも大切にしていきたいですね。

以上、ブッダが教える愉快な生き方(藤田一照著、NHK出版)は、人生を豊かにしてくれる「仏教の学び方」について解説しています。でした。

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