カレーハウスCoCo壱番屋の創業者・宗次德二自身が著者となっている『”ココ一番”の真心を』(中経マイウェイ新書)をご紹介します。 独自のFC展開により、愛知を拠点に全国500店舗へと成長。世界一のカレーチェーン店といわれるまでに成長させました。(文中敬称略)
宗次德二(むねつぐ とくじ、1948年10月14日 – )は、壱番屋(カレーハウスCoCo壱番屋)の創業者で元会長です。、厳しい環境で育ちながらも、努力と独創的なアイデアで外食産業を革新しました。(文中敬称略)
これまで、いろいろな偉人・成功者をご紹介してきましたが、その「ほしのもと」から、自己実現できそうな最低限の環境はあったように思います。
しかし、今回の宗次德二は、もしかしたら例外と言っていいかもしれません。
両親が不明で、本当の生年月日すらもわからない。
引き取ってくれた養親こそいましたが、正直、経済的にも文化的にも満足な環境とは言いがたかった。
本当の両親なら、毒親であることを反骨精神に昇華できる可能性もありますが、もとはといえばお互い他人同士ですから、そういう感情はないでしょう。
「ほしのもと」に恵まれない、というより、何をバックボーンとして自我を形成していいかわからなかったのではないかと思います。
それが、いかにして「最も大きいカレーレストランのチェーン」(2013年にはギネス世界記録認定)までに至ったのかを確認していきます。
孤児院出身から世界一のカレー店主に
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今年は新登場のThe海老スープカレーと定番のローストチキンスープカレー?
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宗次德二は、後から作られた名前と戸籍で、1948年(昭和23年)に石川県生まれとされました。
生後まもなく、兵庫県尼崎市の孤児院に預けられ、3歳のときに雑貨商・宗次福松、清子夫婦の養子となります。
幼少期から貧困や家庭環境の厳しさに直面したことで、早くから自立心と労働への価値観を培いました。
この経験が、のちに「徹底した顧客志向」と「努力を惜しまない経営哲学」に繋がったとされています。
養父が競輪やパチンコなどのギャンブル好きで生活が不安定だったことから、養母は家を出てしまうし、宗次は、貧しい生活を支えるために、少年時代からアルバイトをして生計を立てていました。
15歳まで生活保護を受けて生活しましたが、何しろ電気や水道も引くこともできず、ろうそくで明かりを得、雑草を抜いて食べるほど困窮した生活を送ったといいます。
岡山県玉野市など各地の廃屋を転々とし、パチンコ店で玉や煙草の吸殻を集めるなどして生計を助けていたそうです。
拾わなかったり、家の掃除を怠ったりすると、養父から全裸にされ虐待を受けたとか。
だったら、養親は何で引き取ったんでしょうね。食わせてもらいたかったからかな。
こういう連中のために、養子縁組もハードルが高くなっちゃうんですよね。
この辺の話はもう、悲惨すぎて胸がつまり、一気に読むことができません。
貧乏な上に、養親との関係も良好ではなく、愛情不足の中で育ったことが、逆に彼の「家族経営」への強いこだわりを形成したといわれます。
そんな養父が死んだので、別居していた養母のもとに移り住み、アルバイトしながら学費、生活費などを稼ぎ、1967年(昭和42年)3月に、なんとか愛知県立小牧高等学校商業科を卒業しました。
このへん、地味ですが、成功者の萌芽がありますね。
こんな「ほしのもと」だと、とてもじゃないですが、高校進学しても人生の展望が開けないから、経済的にもしたいという意欲もわかないものです。
ところが宗次は、高校に入り、かつ挫折せず卒業しています。
宗次には、『夢を持つな!目標を持て!』(商業界)という著書もあるのですが、要するに漠然とした希望ではなく、具体的な到達点がなければ努力すべき道筋も描けない、ということを述べています。
もちろん、その道筋は苦しくても進まなければならないと。高校も挫折するようでは大志も抱けないと歯を食いしばって頑張ったのかもしれません。
そして、新聞広告の求人で不動産会社に就職。
職場で直美と出会い結婚します。
宗次と妻の直美は、結婚すると独立しましたが、収入が安定しなかったので喫茶店を開店。
すると、直美の作ったカレーが好評だったので、カレーライスに特化した店を開こうと決意し、1978年に愛知県一宮市で「カレーハウスCoCo壱番屋」の1号店を開業しました。
「お客様にとって親しみやすく、選択肢が多いカレー」をコンセプトに掲げ、トッピングや辛さを自由に選べるシステムを導入。
このユニークな仕組みが顧客に支持されました。
本書によると、店舗の清掃や従業員教育に細心の注意を払い、「日本一清潔なカレー店」を目指しました。
メニューの自由度を高めることで、顧客のニーズを的確に満たしました。
創業当初からフランチャイズシステムを導入し、急速な店舗拡大を実現しました。
個人で始めたため、人も金も心細かった宗次としては、本部が全責任を持つチェーン店よりも、加盟店を募るフランチャイズ制のほうがよかったんでしょう。
ちなみに、フランチャイズ制を採用しているのは、マクドナルド、セブン-イレブンなどで、チェーン店を採用しているのは、銀だこ、無印良品などがあります。
マクドナルドは、原田泳幸が社長のときにフランチャイズ制にしたものの、販売店の衛生面が悪くなったという意見もありますね。
CoCo壱番屋は、その点に気をつけたそうです。
加盟店とは資本関係がないのに、経営ノウハウの提供や開業準備のサポートを徹底しているそうです。
宗次は、厳しい環境で育ちながらも、努力と独創的なアイデアで外食産業を革新しました。
彼の経営手法は、単なるビジネスの枠を超えて、多くの人々に影響を与え続けています。
完全燃焼したら潔く後進に道を譲る
12/10 毎週月・木は、ボランティアの集めたゴミの回収日。この時期毎回20袋程、約8割がケヤキの枯れ葉です。格闘の本番は、間もなく始まるイチョウの落ち葉です。 pic.twitter.com/HTmNka84np
— 宗次德二 (@tokujimunetsugu) December 16, 2024
凡夫のオーナー社長だと、「余人を持って代えがたい」などと自画自賛して、老害を発散させながらそのポストをなかなか手放さないものですが、宗次は2002年に53歳の若さで顧問(創業者特別顧問)に退き、1998年から社長を務めていた妻の直美も代表権のない会長に退き、2011年に会長から非常勤の相談役となり引退しました。
宗次は、事業の成功後、自分の富や名声を大きくする方向ではなく、「世の中に恩返しをする」ことを自らの使命と考えており、現在はNPO法人イエロー・エンジェルの理事長として、誰もがクラシック音楽を気軽に楽しむための音楽ホール「宗次ホール」を設立。
自身の資産を使い、音楽や文化活動への支援(若き音楽家育成や中・高校への楽器寄贈をはじめ各種団体への寄付等)、NPO活動などの社会貢献に力を入れています。
宗次は引退後も社会貢献活動を通じて、彼の人生哲学を具現化し続けており、日本の実業家としてだけでなく、文化支援者としてもその名を刻んでいます。
私は、地元にCoCo壱番屋があるのに、まだ行ったことがないのです。
みなさんは、いかがですか。
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