神社に行っても神様に守られない人、行かなくても守られる人。(岡田能正著、双葉社)は、神様や神社との向き合い方を解説

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神社に行っても神様に守られない人、行かなくても守られる人。(岡田能正著、双葉社)は、神様や神社との向き合い方を解説

神社に行っても神様に守られない人、行かなくても守られる人。(岡田能正著、双葉社)は、神様や神社との向き合い方を解説した書籍です。本書を読むことで、ツイていないと感じるあなたが「神社に行っても神様に守られない」理由がわかるかもしれません。

『神社に行っても神様に守られない人、行かなくても守られる人。』は、賀茂神社禰宜である岡田能正さんが双葉社から上梓した書籍です。

「神社の正しい活用法」をまとめています。

プロフィールによると、滋賀県近江八幡市で1300年続く賀茂神社の第49代宮司の長男として誕生。

馬見岡神社など7社の宮司も兼務し、全国滋賀県人連合会ふる里滋賀県人会事務局長。

近江八幡国際協会理事。日本フードアナリスト協会評議員だそうです。

本書は、AmazonUnlimitedの読み放題リストに含まれています。

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基本的な守りごとは、たった4つ

本書『神社に行っても神様に守られない人、行かなくても守られる人。』に、関心を持たれたあなた。

タイトルでいうと前者、すなわち「神社に行っても神様に守られない」と認識している人ではないでしょうか。

雑誌に特集されているパワースポットはもれなくまわっているし、初詣だってちゃんとやっている。

お賽銭も自分でははずんでいるつもりだ。

ルールも守って二礼二拍手一礼もしている。

でも、自分はツイていない。

神様よ、あと何が不足なんだ。

そう思って、本書のタイトルが気になったのではないですか。

そんなあなたに、神様とのお付き合いのあり方を説いているのが本書なのです。

現在では、神社というとパワースポットであるとか、縁結び、開運など、現世利益のためキーワードばかりに焦点が当てられているように思えます。 本来は私たち日本人の姿そのもの。
そして、その地に住んでいた祖先が手を合わせ続けてきた聖なる空間です。
御利益をいただこうとする前に、日本人と自然、その暮らし方そのものにもう一度、目を 向けていただければと思います。

つまり、神社へ行けば願い事を叶えてもらえる、という我欲を果たしたいばかりに参詣する人がいるが、それは心得違いだ、と書かれているわけです。

そりゃそうですよね。

私は、神道も含めて特定の世界観に対する信仰はありませんが、この点はよくわかります。

多くの日本人大衆は、信仰もないくせに、お正月とかお宮参りというと参拝して、雑誌にパワースポット特集が載るとさっそく「巡礼」して何かご利益を得ようとする。

ふだん、その神様をちっとも意識していなかった連中が、「神様、金持ちにしてくれよ」「もっと偉くしてくれよ」と、要求ばかりされたって、神様だって「なんだよお前、突然に!」っておっしゃいますよね。

そんなの調子良すぎだろう、と思っていました。

本書タイトルの、『神社に行っても神様に守られない人、 行かなくても守られる人』は、まさにそれです。

そんなときだけ、調子良く参詣する手合は、「行っても神様に守られない人」なのです。

では、タイトル後半の「行かなくても守られる人」という人は、どういう人なのでしょう。

もちろん、そういう人は、行っても守られるでしょう。

つまり、願い事をすればかなうでしょう。

本書も、「ツイている」というのは、神様が付いているからうまくいくこと、と説明しています。

神様は、「守られる」ことに見合う努力とか、願い事をするだけの前提が整っていれば、話を聞いてくれるのです。

では、それはどうすればいいのか。

それが本書には書かれています。

ここまでお話ししてきたことで、タイトルにある『神社に行っても神様に守られない人、 行かなくても守られる人』がどんな人か、なんとなくわかっていただけたことと思います。 正解を言ってしまえば、神社に行かなくても神様に守られる人になるには「浄不浄の線引きをすること」「日常的に、心身を清い状態に整えること」「感謝すること」「素直で謙虚であること」といったところでしょうか。
「それだけ?」と思いますか? はい、それだけなのです。 そもそも神道は「認める」「許す」、そのうえで「敬意を払う」精神によって支えられているものなのですから。 戒律の厳しい宗教がある一方で、神道には戒律そのものがありません。
戒律などに縛られなくても、縄文の昔から日本人の中には秩序があった、自分を律することができたと言えるでしょう。

基本的な守りごとは、たった4つであるわけです。

では、その「浄不浄の線引きをすること」「日常的に、心身を清い状態に整えること」「感謝すること」「素直で謙虚であること」の4つは、具体的に日常生活のどんなところをどうすればいいのか。

それが、本書には詳しく書かれているのです。

「穢れ」を「祓う」日常的な営み

本書は全体で3章の構成です。

第1章は、「暮らしの中での神様とのつながり方」について書かれています。

なるほど、「穢れ」「不浄」というのはこういうことなのか、とわかります。

いくつか抜粋させていただきます。

たとえば、朝日を浴びて1日が始まるというのは、眠りが仮りの死であり、一方、光に包まれる朝は再生の象徴だといいます。

「今日も生きている」「新しい生をいただいた」という感謝の気持で一日を始めようと本書は書いています。

神道では、死は穢れとされています。

本書の説明を引くと、愛する妻、伊邪那美命(イザナミノミコト)の死後、夫の伊邪那岐命(イザナキノミコト)は、寂しさのあまり黄泉の国まで追いかけてきます。

その後、2人は喧嘩別れをしてしまうのですが、黄泉の国から戻った伊邪那岐命は、穢れを祓うために海に入って禊をします。

それは、「浄と不浄の間にしっかり線を引く」「不浄は持ち込まない」という日本人の感覚につながっています。

朝、顔を洗い、歯を磨くことは、夜の間にまとわりついた「穢れを祓う」という意味合いが含まれているそうです。

ですから、寝坊をしたと言って、それらを端折ってはいけないのです。

身支度についても書かれています。

別に高価なものでなくてもいいから、「きちんと手入れされている」ものを着ること。

服装はその日の自分の魂を映すものであり、身支度を整えることも「祓い」になるそうです。

「何でもいいや」と、クシャクシャなものを着ていると、生き方も自然と「何でもいい」ものになってしまうといいます。

清潔な身なりをすることで、魂も整うということです。

食事の際の「いただきます」は「祓い」の言葉だそうです。

「ベジタリアン」だの「ヴィーガン」だのが、「命を奪うのが可愛そうだから動物性食品は食べない」とドヤ顔で宣言していますが、そもそも植物性だって「命あるもの」です。

ということは、すべての食べものが、尊い命を捧げてくれているのです。

中国や韓国でも箸を使いますが、日本のように食べ物に対して横向きではなく縦向きに置きます。

横向きというのは意味があり、「命を捧げたもの」(食べもの)と「生きている者」(人間)の間の結界を表しているそうです。

そして、食事の作法は、ただ単に「きれいに食べる」ためのものではなく、すべての命に対する敬意を表したものといいます。

出かけるときは、たとえ1人で暮らしても、家族が留守中でも「行ってきます」と口にだすこと。

「行ってきます」は、「今日も頑張って、世のために働いてきます」「1日無事で、またこの家に帰ってこられますように」という意味の言霊だそうです。

つまり、「行ってきます」は、あなたを見守る神様との会話といいます。

たしかに、黙ってなしくずしに玄関を出るよりは、一声発することで、「さあ、出かけて今日の用をたすぞ」という気持ちになります。

言葉を発するというのは、大切なことですね。

ネガティブな気持ちも「穢れ」だそうです。

いくら清々しい気持ちででかけても、世の中は不愉快なことが多々あります。

そこで、モヤモヤ嫌な気持ちになったら、その状態が「穢れ」「不浄」なので、「祓い」ましょうと本書には書かれています。

近所の神社に深呼吸に行くことを勧めています。

けだし、神社に行くだけでも気分転換になりますよね。

私が昔、新卒で会社に入った頃、課長に命じられていたのは、姿見に自分を映して笑顔を作ること。

本書にも、鏡を見て笑顔を作ろうと書かれています。

鏡(かがみ)から「が(我)」を抜くと「神(かみ)」になるといわれ、「が」は「闇」も意味するとか。

「我が出る」「我が強い」など、自分勝手な主張が強いと人から敬遠されるばかりか、神様からも敬遠されてしまうといいます。

私の場合には、「神様」ではなく「クライアント」に対してでしたが、心が表れるから、いつも鏡で自分の顔は見ておいたほうがいいと教えられました。

そのときは、面倒なことを言う人だなと思いましたが、今は「なるほどな」とうなずけます。

本書によれば、「穢れ」は「気枯れ」の意味もあるといいます。

「穢れ」を「祓う」というのは、信仰を自覚していなくても日常的に私たちが行っていることなんですね。

第2章は、「神社との正しい付き合い方」が解説されています。

神社とはどんな場所か。

パワースポットとはなにか。

「いい神社」の見つけ方。

遠くの神様より、近くの産土神社。

神社にはいつ行けばいいか。

お賽銭はいくらがいいか。

神社はどうして一人で行くのがいいか。

神社に参詣に行ったことがなく、また生涯行くつもりはない、という方はいないでしょう。

せっかく参詣するのなら、知っておいたほうがいいことがたくさん書かれています。

第3章は、「神道は『宗教』ではない」ことが書かれています。

神道を支える精神や、国家神道になった経緯とそのいいところや悪いところなどが解説されています。

本能として教えられずとも備わっていた感覚

といっても、神道は「ねばならない」という厳しい戒律や経典で信者を押さえつけ、カリスマ教祖を戴くことで信仰を成立させてきた一神教の宗教とは違うといいます。

神道は呼吸をするように自然に、親から子へと教えられていった、または、本能として教えられずとも備わっていた感覚なのかもしれない、と本書は述べています。

たしかに、前述のような日常的なふるまいは、信仰でなくても自然とそうした方がいいと思って行っていることです。

神道はそもそも宗教ではないからこそ、神仏習合という、一神教の外国人にはとうてい理解できない世界観が日本では成立しているともいいます。

まあ、冒頭に書いたような「ご利益があるから神社に行く」などというようなオポチュニストでなくても、「では神社ってなんだろう。神道ってなんだろう」と問われると、なかなか明快に回答できる人は多くはないと思います。

その意味で、ぜひ本書を読まれることをおすすめします。

以上、神社に行っても神様に守られない人、行かなくても守られる人。(岡田能正著、双葉社)は、神様や神社との向き合い方を解説、でした。

神社に行っても神様に守られない人、行かなくても守られる人。 - 岡田能正
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