今年も夏の甲子園で繰り返された光景。甲子園で響く韓国語校歌への偏見と差別――京都国際高校ヘイト問題から見る日本社会の課題

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今年も夏の甲子園で繰り返された光景。甲子園で響く韓国語校歌への偏見と差別――京都国際高校ヘイト問題から見る日本社会の課題

今年も夏の甲子園シーズンとともに、残念ながら繰り返された光景があります。京都国際高校に対するSNS上でのヘイト投稿です。

特に、勝利後に歌われる韓国語の校歌に対して「日本の大会なのに日本語でない校歌はおかしい」といった批判が相次いでいます。しかし、勝った学校が校歌を歌うのは当然のルールであり、何ら問題はないはずです。それでは、なぜこのような差別感情が生まれるのでしょうか。

京都国際高校の成り立ちと現在

まず、京都国際高校がどのような学校なのかを正しく理解する必要があります。同校の前身は、1947年に在日韓国・朝鮮人のコミュニティが民族教育のために自発的に資金を集めて設立した「京都朝鮮中学」でした。戦後の混乱期に、自分たちの子どもたちに教育を受けさせたいという切実な願いから生まれた学校だったのです。

その後、1958年に学校法人「京都韓国学園」として認可を受け、2003年に現在の「京都国際中学高等学校」として日本の一条校(学校教育法に基づく正規の学校)となりました。現在では日本と韓国両国から正規の学校として認可されており、日本の学習指導要領に則った教育が行われています。

注目すべきは現在の生徒構成です。2024年時点で全校生徒約160名のうち、実は大多数が日本人生徒で、韓国系の生徒は少数派となっています。特に甲子園で活躍する野球部員の大部分も日本人が占めています。つまり、現在の京都国際高校は、韓国系の学校としてのルーツを持ちながらも、多くの日本人生徒が学ぶ国際的な教育機関となっているのです。

ヘイト投稿の実態と対応

京都府と京都市によると、京都国際高校に対するSNS上でのヘイト投稿は毎年繰り返されており、2024年の夏の大会でも校歌に言及する誹謗中傷コメントが相次ぎました。今年2025年の大会でも、初戦突破後にSNS上で差別や排除を扇動する投稿が3件確認され、府と市が削除要請を行っています。

これらの投稿内容は、校歌が韓国語であることを理由とした民族的偏見や、「日本の大会に出るべきではない」といった排除的な意見が中心となっています。しかし、これは明らかにヘイトスピーチに該当する内容であり、人間の尊厳を踏みにじる行為です。

差別感情の背景にあるもの

歴史認識の不足

多くのヘイト投稿の背景には、在日韓国・朝鮮人の歴史的経緯に対する理解不足があります。戦前の植民地支配、戦後の混乱期における差別や偏見、そして現在に至るまでの複雑な歴史的背景を知らないまま、表面的な情報だけで判断してしまう傾向があります。

京都国際高校の成り立ちが、戦後の在日コリアンが子どもたちの教育のために必死に作り上げた学校であることを知れば、校歌に込められた思いも理解できるはずです。しかし、こうした歴史的背景への無理解が、短絡的な批判を生み出しています。

「純粋性」への過度な固執

日本社会には、「日本らしさ」や「純粋な日本文化」への過度な固執があります。これは健全な愛国心とは異なり、多様性を排除する排外主義的な思考パターンです。甲子園という「日本の伝統的な大会」に韓国語の校歌が響くことに違和感を覚える人々は、実は多様性こそが現代日本社会の現実であることを受け入れられずにいるのかもしれません。

しかし、現実には京都国際高校の生徒の大多数は日本人であり、彼らもまた日本の高校生として甲子園を目指し、努力を重ねてきました。校歌の言語によって彼らの努力や資格を否定することは、まったく筋の通らない話です。

インターネット上での集団心理

SNSや匿名掲示板では、過激な意見ほど注目を集めやすく、また同調圧力によって差別的な発言がエスカレートしやすい環境があります。実際に会って話せば理解し合える内容でも、オンライン上では感情的な対立に発展しやすいのが現実です。

政治的な対立の影響

日韓関係の政治的な緊張が、無関係な高校生たちにまで影響を与えている側面もあります。国家間の問題と、日本で学ぶ高校生たちの活動は本来別次元の話であるべきですが、政治的な対立感情が教育現場にまで持ち込まれているのが現状です。

真の問題は何か

最も深刻な問題は、こうしたヘイト投稿が若い世代、特に高校生たちに与える影響です。甲子園という夢の舞台で全力でプレーする生徒たちが、自分たちの出自や学校の歴史を理由に攻撃されることは、彼らの人格形成に深刻な影響を与えかねません。

また、こうした差別的な言動を放置することは、日本社会全体の人権意識の後退を意味します。多様性を受け入れ、異なる背景を持つ人々が共に生きる社会を目指すという、現代社会の基本的な価値観に反する行為だからです。

建設的な議論に向けて

校歌が韓国語であることに疑問を感じる人がいるのも、ある意味では自然なことかもしれません。しかし、大切なのはその疑問を差別や排除ではなく、理解と対話の出発点とすることです。

京都国際高校の歴史を学び、現在の生徒構成を知り、彼らがどのような思いで野球に取り組んでいるかを理解すれば、校歌の言語など些細な問題であることがわかるはずです。むしろ、多様な背景を持つ生徒たちが一つの目標に向かって努力する姿こそ、現代日本社会の理想的な姿ではないでしょうか。

甲子園は確かに日本の伝統的な大会ですが、その伝統の本質は「高校生たちの純粋な努力と情熱」にあります。校歌の言語や学校の出自ではなく、グラウンドで見せる彼らのプレーと努力に注目することこそが、真のスポーツマンシップというものでしょう。

私たちに必要なのは、違いを理由とした排除ではなく、多様性を力に変える包容力です。京都国際高校の生徒たちが堂々と校歌を歌い、誇りを持って戦える社会を作ることが、結果的にはより豊かで強い日本社会の実現につながるのではないでしょうか。


この記事は、京都国際高校に対するヘイト投稿の背景にある差別感情について、歴史的経緯と現在の状況を踏まえて分析したものです。スポーツを通じて多様性を受け入れる社会の実現に向けて、建設的な議論が生まれることを願っています。

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