技術王国・日立をつくった男創業者・小平浪平伝(加藤勝美著、PHP研究所)は、国産初の5馬力誘導電動機を完成させた成功の足跡を紹介しています。日立製作所は、外国人に頼らない技術と生産力を目指して、小平浪平が日本のイノベーションと市場発展のために創業しました。(文中敬称略)
小平浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 – 1951年10月5日)は、株式会社日立製作所の創業者です。
日立製作所といえば、連結売上高が10兆円を超える大企業中の大企業です。
その原点は、創業者である小平浪平の、「日本で使う機械の技術や市場は、日本人のものでなければならない」という国産国内供給の信念がありました。
国産品で日本の産業を支える
栃木県栃木市合戦場郵便局の金の
ポスト。時代が江戸から明治になったばかりの1874年、日立製作所創業者の小平浪平は栃木県下都賀郡家中村大字合戦場(現・栃木市)に生まれた。 pic.twitter.com/wi0XGOU8rC— 鬼怒川みやび (@qzNXwka42Dw9xVf) April 7, 2023
小平浪平は元号にすると明治7年、栃木県下都賀郡家中村大字合戦場(現・栃木市都賀町合戦場)に生まれました。
家庭は教育熱心で、小平は「四書五経」の素読をさせられたそうです。
広岡浅子のところでも出てきましたね。四書とは、儒教の教えを理解するための基本的な4つの書物で、五経とは、やはり儒教の学問の基盤となる5つの古典です。

ただし、広岡の場合は、「女に教育は要らん」といわれて、それを禁じられていたそうです。
もっとも、小平自身はあまり勉強を熱心に行っていたわけではなく、第一高等中学校を受験するも失敗します。
が、最初の転機として、その間に父が多額の借金を遺して病没しました。
そのため、兄が医師になる道を諦め、地元の銀行に就職することで学費を捻出することになりました。
兄と母の支援によって、学生生活を続けられることになった小平は奮起し、1年の浪人を経て第一中学校(在学中に第一高等学校に改組)に合格。
その後は東京帝国大学工科大学電気工学科に入ります。
そこで思ったのは、日本の工業が幼稚であること。
本書には、こう書かれています。
「わが国の工業が振るわなければ、これを振るわせるのはわが任務であり、決して会社の番人に終わるべきものではないことを深く感じた」
東大卒の学歴だから、いい会社の就職も楽勝だ。そこで安穏としたサラリーマン生活を送ろう、ではだめなんだと。自らが、新しい技術や文化で社会を変革、すなわちイノベーションの担い手になるんだと考えたわけです。
明治時代に、こういうココロザシはすごいですね。
大卒は増えているのに、院生が減っている昨今の若者の傾向とは、正反対です。
1900年に小平は、藤田組小坂鉱山に技師として就職後、広島水力発電や、東京電燈(現東京電力)などを経て、1906年に久原鉱業所日立鉱山に、工作課長として入社。
電気主任技術者として、鉱山の効率化と設備改善に尽力します。
小平はここで、鉱山内で使用する電気設備の自社製造を提案し、日本国内での製造業の可能性に目を向け始めます。
「今僕が従事している仕事は外国から機械器具を輸入し、それぞれの製造会社から技術者を雇い入れ、われわれが裾付けをやっている。あちらから先生が来て実地に教えるのを覚えるのは難しいことではなく、誰にでもできる。しかし僕はこれらの機械器具を日本で作れるようにしなくてきならないと思う」
そして1910年、鉱山用の小型電動機を自ら設計・製造。
これが後の日立製作所の原点となります。
小平は、「国産品で日本の産業を支える」という信念を持ち、1910年に独立して日立製作所を創業しました。
つまり、日立を起こした原点は、外国人に頼らない技術と生産力にあったのです。
もっとも、それを実現するためには、ずいぶん失敗もしたようです。
それは仕方ないですよね。
凡夫はそこで撤退するのですが、小平は諦めずに頑張りました。
製品が故障すると、客には弁償して、クレーム処理も逃げずに、歯を食いしばってまた製品づくりに取り組んだそうです。
小平は、人材にもこだわり、徒弟養成所(現・日立工業専修学校)を設立しました。
大手なら、黙ってても優秀な人材が集まるでしょうが、そうでない場合、自分が育てようと思ったわけです。
1920年には、会社を株式会社に。資本金1000万円・従業員2700人です。
1924年には、初めての国産蒸気機関車を開発。
さらにその2年後には、扇風機を開発して輸出し、技術と市場の国産化が実現しました。
日立の創業理念には、
1.「和」「誠」「開拓者精神」という3つの基本精神を掲げ、経営の柱とした。
2.単なる利益追求ではなく、日本社会全体の発展を目指す
などが掲げられ、それが多くの技術者に支持されたといいます。
要するに小平浪平の事業は、「技術の国産化」と「産業の自立」という使命感に貫かれていました。
それはいきおい、単なる企業経営にとどまらず、日本全体の工業化を進める原動力となったわけです。
日立は現在、電力・インフラ・ITなど多岐にわたる分野でグローバル企業として活躍中です。
懐かしいポンパ
とあるお宅で30年。
長生きした家具調テレビ・日立ポンパCT-727('71)https://t.co/MbDk6inFIE pic.twitter.com/5CdQuPuGAG
— あまざけ (@panacolorTH20) November 22, 2023
日立というと、私がイメージするのは、ポンパという、昭和40年代前半に発売されたカラーテレビです。
1970年の大阪万博の頃から、ぼちぼちカラーテレビが普及していたと思いますが、その頃のテレビ受像機には、真空管が一般的に使われていたのです。
しかし、半導体技術が急速に発展していた時期でもあり、真空管からトランジスタへの移行が進んでいました。
「ポンパ」はその流れの中で、日本初の完全トランジスタ化されたカラーテレビとして大きな注目を集めました。
「真空管が1本もない!」というのがテレビCMで盛んに流されました。
何が違うかというと、トランジスタ化されたテレビは、電源を入れたら、すぐに画面が表示されることです。
真空管テレビは、すぐに出てこないんです。
しかも、我が家は物持ちがよく、15年ぐらい、それを使ってましたね。
みなさんは、日立の製品は使われていますか。
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