日本は差別がないという歴史観が一部で言われます。奴隷がないから差別のない社会、所有しない社会を作ったといいますが……

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日本は差別がないと明言しているのは武田邦彦さんです。奴隷がないから差別のない社会、所有しない社会を作ったといいます

日本は差別がないという歴史観が一部で言われています。奴隷がないから差別のない社会、所有しない社会を作ったといいます。しかし、奴隷が制度として明文化されていなかったからと言って、差別がないと言えるでしょうか。そもそもそれは現代の格差社会という「高度な差別」をごまかす論理に繋がりかねません。

「士農工商」が消えた本当の理由は……

教育現場は、昭和時代の常識が変わったという記事が話題です。

これがまとめ記事です。


たとえば、「はだ色」という色は、「20年ほど前に、『多様な国籍の人が暮らす時代において、差別的だと感じる人もいる』との問題提起があり、業界全体で『はだ色』の名称は使わなくなりました」

クラス名簿は、男女混合の50音順が主流に。

社会科の教科書では、死後の呼称である「聖徳太子」から、「厩戸王(うまやとおう)」への変更。

士農工商という身分制度の記載も、歴史教科書からなくなったと書かれています。

ただし、最後だけは全くの間違いだったわけではなく、武士が支配階級として君臨し、その下に百姓や職人、町人がゆるやかに並列して連なっていたイメージだったと改めています。

要するに、農工商という階級は、農>工>商ではなく、順不同だったということで、武士が格上階級であることに変わりはないわけです。

ですから、どちらかというと、「順不同」よりも、「武士が支配階級であること」を隠す目的で、「士農工商」という階級表現をやめた印象が強いですね。

つまり、まるで過去の日本には差別や階級がなかったかのように、歴史を糊塗する疑いを抱くこともできます。

そういう思想的潮流が、今は保守陣営にあるのでしょうか。

何しろ、「日本に差別はなかった」とはっきり述べている人すらいます。

ヘイトスピーチはそれ自体が差別である

批判的に取り上げるのに、わざわざURLをご紹介するのは矛盾した話かもしれませんが、何についての記事なのかを明らかにするためには、やはりまず、対象となるコンテンツを示さなければなりません。

以下は、何かと物議を醸す武田邦彦さんの動画です。

[武田邦彦]海外の反応「日本を恐ろしいほど尊敬」外国人はなぜこんなに日本を賞賛するのか… 日本が世界で唯一、差別のない社会、所有しない社会を作った。それが素晴らしかったので、世界で唯一、国家があり、奴隷がいない、民が主の社会を作った。[武田邦彦 公式 youtube]


動画を視聴してみると、要するに、「所有がない」「差別がない」というのは、奴隷がないことを指しています。

おっかしいなあ。

「日本でも弥生時代に生口と呼ばれる奴隷的身分がすでに存在したとされる。」(Wikiより)というのは、歴史的定説かと思っていました。

つい最近まで、奉公という表現ができる奴隷のような扱いを、武田邦彦さんはご存じないのでしょうか。

それとも、奴隷制度として法文化されていないという意味でしょうか。

いずれにしても、「奴隷がない」ことと「階級がない」「差別がない」ことは別の話です。

たんに、日本には「奴隷」という名称の身分や階級がなかった、というだけのことで、支配階級が存在する限り、特定の階層が別の階層を圧迫する点で、人が人を支配する奴隷支配と根本的には同じでしょう。

ましてや、差別というのは、たんに政治的社会的な階級ではなく、もっと幅広く観念的なものを含めた概念です。

と書くと、「差別」の方が「圧迫」よりも緩いように見えますが、逆に「内心の自由」と混同して社会で取り締まりにくい場合もあります。

たとえば、武田邦彦さんと言えば、『ゴゴスマ』で、ソウル旅行中の日本人女性が現地男性から受けた暴行事件を扱った際の発言が批判を受けました。

「路上で日本人の女性を、訪れた国の男が襲うのは世界で韓国しかない」
「日本男子も韓国女性が入ってきたら暴行しないといけない」

などと発言して「ヘイトではない」と言い張っていてるわけですから、そもそも「差別」の概念が普通の人とは違うのだろうと思います。

当該発言は、「特定の人の事実開示」ではないので、誰からも名誉毀損で訴えられることがない「言論の自由」で逃げられると、武田邦彦さんが周到に思い巡らせて発言したものと私は解しました。

ただし、韓国人の誰かがこれを聞いたらどうでしょうか。

そんな行為をした事実などないのに、武田邦彦さんの発言ではその人もそうである、ということになってしまいます。

私は日本人ですが、もし韓国人だったら嫌でしょうね。

そうでない韓国人まで、なんの根拠もなく一絡げにするのは、ご自分が標榜する科学者の名が泣きます。

もちろん、その根拠となる定量的データもロジックも、武田邦彦さんは一切挙げていません。

これは、「人種、出身国、民族、宗教、性的指向、性別、容姿、健康(障害)、といった、自分から主体的に変えることが困難な事柄に基づいて、属する個人または集団に対して攻撃、脅迫、侮辱する発言や言動のことである」(Wikiより)ヘイトスピーチ以外にの何ものでもありません。

「ヘイトスピーチは、日本語では「憎悪表現」の他、「差別的憎悪表現」「憎悪宣伝」「差別的表現」「差別表現」「差別言論」「差別扇動」「差別扇動表現(差別煽動表現)」などと訳される。」ともWikiには記載されています。

つまり、武田邦彦さんがそう思うのは妨げられませんが、それを表明することは差別行為なのです。

少なくとも現代の倫理は、そこまで到達しています。

武田邦彦さんが「差別はない」と言っても、そりゃヘイトスピーチおおいに結構な人なら、あらゆる差別は見えないでしょうと言わざるを得ません。

「士族」は今も差別の証である

士農工商という記述が社会科教科書から消えた、との記事でご紹介したように、それは「農工商」の格付けを訂正するからであり、「士」はやはり別です。

江戸時代が終わり、明治維新後に新しい政府や憲法ができても、戸籍には「士族」「平民」といった族称の記述は残りました。

少なくとも戦前は、その「身分」により、就職や縁談が有利に働いていました。

戦後、戸籍からはその記述は削除されましたが、消し方が雑で、今でも戸籍を取り寄せるとそれが消し忘れていたり、一応消してあるけれども消し残しからそこに何が記載されていたか簡単に推理できたりすることがあります。

なぜ記述を消したかというと、それが新たな差別を生むと懸念されているからです。

それは、戸籍係の主観としてではなく、そういう決まりなのです。

つまり、差別の温床、もしくは再生産につながることを、国が認めているのです。

機会均等ではなかったから学制も変わったのではないのか

ヘイトスピーチは見ないことにしたとして善意に解釈すると、武田邦彦さんは「奴隷」に比べたら日本の身分や階級はマシといいたいのかもしれません。

しかし、それなら、日本には奴隷という名称の身分や階級がなかったことだけを述べればいいわけで、いずれにしても「差別がない」とまで断言するのはいかがなものでしょうか。

身分の違いが公然としている戦前までですら、「差別がない」などとしてしまったら、現代のように身分の違いはないけれど格差社会であるという、より「高度」な差別を見逃したり免罪したりすることになるからです。

日本は、戦後、学制を改正し、教育機関の複線化を改めました。

それについてはまた是非の議論はありますが、その大義としして「機会均等」があったことは確かです。

機会均等を改めてうたうということは、それまで機会は均等でなかったということです。

何を以て差別とするかのハードルが、武田邦彦さんは甘すぎるのではないでしょうか。

みなさんは、どう思われますか?

以上、日本は差別がないという歴史観が一部で言われます。奴隷がないから差別のない社会、所有しない社会を作ったといいますが……、でした。

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Image by Robin Higgins from Pixabay

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