谷津嘉章さんが、コロナ禍で辞退者が続出する中、東京オリパラの聖火ランナーとして義足で足利市の石畳を走りきりました

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谷津嘉章さんが、コロナ禍で辞退者が続出する中、東京オリパラの聖火ランナーとして義足で足利市の石畳を走りきりました

谷津嘉章さんが、コロナ禍で辞退者が続出する中、東京オリパラの聖火ランナーとして義足で足利市の石畳を走りきりました。元オリンピック選手でしたが、35歳から予備軍だった糖尿病のため、足の血豆に入ったバイキンという、ありふれた出来事で突然脚の切断に至って2年。壮絶なリハビリとトレーニングでオリンピックに“復帰”しました。(キャッチ画像はTwitterアカウントより)

元アマレス五輪選手

コロナ禍で延期された上に、放言不祥事もあって聖火ランナーの辞退報道が相次ぐ、東京都オリンピック・パラリンピック。

その中で、この日を待ち続け、義足の東京五輪聖火ランナーとして無事走りきったのは谷津嘉章さんです。

2019年6月25日、糖尿病の合併症で右脚を膝下7センチのところで切断する大手術。

壮絶な痛みと苦しみを乗り越え、リハビリとトレーニングを重ね、義足で走れるまでに復活したのです。


「自分は足利市内の第9走者で、史跡足利学校入徳門前から“小京都”のような町並みの中を走りました。硬い石畳の上を走るのは義足だと厳しく、走る前は『うまく走れるか』と不安もありましたが、走り始めると『ようやく走れた』という喜びやここまで支えてくれた関係者への感謝で万感迫る複雑な思いでしたね。一生懸命笑顔をつくって一歩一歩踏みしめて走り、終わった今はアッという間だった、という感じです」


谷津嘉章さんは、日本大学時代の1976年モントリオールオリンピックで8位、入賞を目指した1980年モスクワオリンピックでも日本代表に選ばれたものの、日本が不参加だったため2大会連続出場はなりませんでした。

1980年に、アントニオ猪木の新日本プロレスに入団。

しかし、子の頃の新日本プロスの選手層が一番厚いときでチャンスに恵まれず、長州力らと全日本プロレスへ。

長州力が新日本プロレスに戻った後も全日本プロレスに残り、ジャンボ鶴田と五輪コンビとして活躍しました。

そして、1990年にメガネスーパーが新団体SWSが旗揚げされると、全日本プロレスの契約期間中でありながら移籍。

しかし、谷津嘉章は1年でSWSを離脱します。

その後は、自分で団体を興したり、長州力の団体を手伝ったりしましたが、やはりレスラーとしてのハイライトは、全日本プロレス時代ではなかったかと思います。

いずれにしても、本人曰く、現役時代の暴飲暴食がたたり、糖尿病を発症しました。

そして右足切断


谷津嘉章さんが2019年に、糖尿病で右足を切断したときのツイートです。

本人も認めていますが、糖尿病の家族がいて、かつ若い時の暴飲暴食が糖尿病を発症させたとはいうものの、糖尿病なら誰もが絶対そうなる、と決まったわけではありません。

発症後20年以上たってから、足の血豆に入ったバイキンという、ありふれた出来事で脚の切断に至ってしまうのですから、こわい話です。

ツイートにもあるように、直近まで試合をしていたのに急に切断では、気持ちの準備もなにもあったものではなかったでしょう。

でも、災難なんてそんなもんです。

何月何日の何時にあります、とわかってたら苦労しません。


しかし、その後、谷津嘉章さんはリハビリで、義足を付けて自力歩行ができるようになりました。

YouTubeにもチャンネルを作り、『義足の青春』という動画を配信しています。

引退後も古傷や生活習慣病と闘うレスラーたち

アマレスからプロレス、実業家と同じ経歴をたどったサンダー杉山さん、巨漢のサンボ浅子さんも、脚を切断しています。

しかし、残念ながら、合併症はさらに進行して、最後はなくなってしまいました。

体を作らなければならない、プロレスラーや力士などは、引退後も怪我の古傷や心臓肥大、糖尿病などと戦い続けている人が少なくありません。

聖火ランナーとして“社会復帰”した谷津嘉章さんは、糖尿病と闘う人たちにとって希望の星といっていいでしょう。

以上、谷津嘉章さんが、コロナ禍で辞退者が続出する中、東京オリパラの聖火ランナーとして義足で足利市の石畳を走りきりました、でした。

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