最近のニュースで、お笑い芸人の千原せいじさんが、本人の意向で日本仏教協会の顧問を辞任した話題が取り上げられています。報道の中には、せいじさんを「仏弟子」と表現するものも見られました。
しかし、千原せいじさんは天台宗で得度をしただけで、お釈迦さまの直弟子になったわけではありません。
今回のニュース自体は、特に大きな意味を持つものではないかもしれません。日本仏教協会という団体は、仏門に入っておられる方でも、多くの方は聞いたことのない任意団体であると思われます。むしろ今回の報道によって、その存在が広く知られることになったと言えるでしょう。
しかし、私はそれよりも、千原せいじさんが得度して以来、「仏弟子」という表現で語られることが気になっています。というのも、せいじさん個人の言動によって、それが仏教そのものの問題であるかのような誤解を生む可能性があるからです。この機会に、「仏弟子」という言葉の意味について、一緒に考えてみませんか。
「仏弟子」という言葉が持つ二つの意味
「仏弟子」という言葉は、使われる文脈によって、少なくとも二つの異なる意味を持つことを理解しておくと、混乱を避けやすくなります。
第一の意味は、文字どおり「お釈迦さまの直接の弟子」というものです。お釈迦様の教えを直接聞き、共に修行した弟子たちを指します。経典に登場する、目連(マハーモッガラーナ)、舍利弗(シャーリプトラ)、阿難(アーナンダ)といった方々が、この範疇に入ります。歴史的存在としての仏弟子です。
第二の意味は、より広義の解釈です。仏教の教えを信じ、学び、戒律や瞑想などの実践を通じて仏の道を歩む人全般を指すことがあります。出家した僧侶はもちろん、在家の信者であっても、仏法を学び実践する人は「仏弟子」と自称したり、呼ばれたりすることがあります。
千原せいじさんは、僧籍をお持ちですが、テレビやYouTubeに出演して芸能活動を続けており、一般的なイメージにおける本格的な修行をされている様子はうかがえません。このような場合、彼を「仏弟子」と呼ぶことには、やはり違和感を覚える方もいらっしゃるでしょう。
宗派による呼び名の違い
実は、「仏弟子」という表現は、すべての宗派で好んで使われるわけではありません。宗派によって、信者や修行者を指す言葉は実に多様です。
例えば、浄土宗や浄土真宗では、「仏弟子」という言葉よりも、「門徒」や「浄土の行者」、「信心者」といった呼び方が一般的です。禅宗では、「参禅者」や「修行者」、「在家禅者」などが用いられます。日蓮宗系では、「法華行者」や「妙法の行者」など、お題目や経典に即した呼び方を好む傾向があります。
このように、一口に仏教を信仰する者と言っても、その立場や実践のあり方は宗派によって大きく異なり、それが呼称にも反映されているのです。
「仏門弟子」という選択肢
では、お釈迦様の直弟子ではない現代の信仰者が、「弟子」という自覚を表明したい場合は、どのような表現が適切なのでしょうか。一つの提案として、「仏弟子」ではなく「仏門弟子」という言葉があります。
これは、お釈迦様個人の直接の弟子ではなく、あくまで仏教という「教えの体系(仏門)」を受け継ぐ修行者であるという意味合いを持ちます。この表現であれば、歴史的な齟齬を生むことなく、信仰者としての自覚を表明することができるでしょう。
以前、浄土真宗の「おかみそり(帰敬式)」を経験された方が、「お釈迦様の弟子になった」と自慢げに話されているのを耳にしたことがあります。しかし、これは広義の意味での「仏弟子」、つまり「仏門弟子」になったに過ぎません。紀元前5世紀ごろに活躍されたお釈迦様の直弟子に、タイムマシンもない現代の私たちがなることは、物理的に不可能なのです。
「おかみそり」は、在家信者(門徒)として、宗門から正式に認められる儀式です。もちろん浄土真宗にも僧侶になるための得度の制度はありますが、在家信者として認められることと、僧侶になることは別物です。在家信者として認められたからといって、特別な特権が得られるわけではなく、せいぜい法名を授けていただける程度です。僧侶のように、毎朝のお勤めで正信偈を読誦するといった決まりも、通常はありません。
なぜ「仏弟子」の定義にこだわるのか
それでは、なぜ今回、私はこの「仏弟子」という言葉の定義にこだわっているのでしょうか。それは、この言葉の多義性を正しく理解しないことには、さまざまな弊害が生じる危険性があるからです。
まず第一に、千原せいじさんの例のように、ある人物が「仏弟子」と呼ばれると、周囲の人々はその人の言動や倫理観を、直接的に仏教的規範と結びつけて判断しがちになります。わかりやすく言うと、実際には信仰そのものの問題ではなく、その個人のパーソナリティや行動に起因する問題であっても、あたかも仏教の教えそのものに構造的な問題があるかのように誤解されてしまう可能性があるのです。
逆に、「仏弟子」という言葉が一人歩きし、一種の権威のように利用されてしまうケースも懸念されます。例えば、一般人に対する宗教的な権威付けとして用いられ、霊感商法やカルト的な団体への勧誘の文句に使われるようなことがあってはなりません。
したがって、私たちは以下の二点を明確に認識しておく必要があります。
一点目は、そもそも歴史的・原義的な意味での「仏弟子」、すなわちお釈迦様の直弟子は、現代には存在しないということです。
二点目は、広義の「仏弟子」に含まれる人々の信仰の深さや実践の度合い、宗派における責任や立場は実に様々であるということです。寺に住み込んで厳しい出家修行をしている僧侶もいれば、千原せいじさんのような在家の僧侶も、また、特に自覚的な活動をしていない一般の門徒の方もいらっしゃいます。「仏弟子」という一つの言葉でこれらを十把一絡げにすることはできないのです。
言葉の意味を見つめ直すことの大切さ
現代社会において、宗教に関する情報は氾濫しています。しかし、そこで使われる言葉の意味を深く考え、正しく理解する努力は、意外とおろそかにされがちです。「仏弟子」という一語を取り上げてみても、その背景には深い歴史と多様な解釈が存在します。
言葉は、私たちの考え方やものの見方を形作る基本的な道具です。特に宗教に関わる言葉は、軽々しく扱うべきではないでしょう。ある表現が適切なのか、それとも誤解を招く可能性があるのか。時には立ち止まり、言葉の持つ本来の意味や、その重みについて考えてみることは、とても大切なことだと思います。
今回の千原せいじさんの報道をきっかけに、「仏弟子」という言葉、そして私たちの信仰のあり方そのものについて、改めて考える時間を持てたなら、それはとても意義深いことではないでしょうか。複雑化する現代社会において、宗教的な表現とどう向き合っていくか。その第一歩は、やはり一つ一つの言葉の意味を丁寧に読み解くことから始まるのです。
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