1歳の誕生日を迎えた子の顔をケーキに何度も押し付け、親たちがゲラゲラ笑っている動画が当然炎上して問題になっています。

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1歳の誕生日を迎えた子の顔を、ケーキに何度も押し付け、親たちがゲラゲラ笑っている動画が当然炎上して問題になっています。

1歳の誕生日を迎えた子の顔を、ケーキに何度も押し付け、親たちがゲラゲラ笑っている動画が当然炎上して問題になっています。もちろん、シェアする価値はありませんが、なぜこんな親が出てくるのかを今回は述べてみたいので、一応ポストは貼り付けておきます。

Xを見ていたら流れてきたポスト。

Xを利用して以来、3本の指に入るぐらいの不快なポスト(動画)を見てしまいました。

コメントの中には、「阿部慎之助ではなく、こいつらを児相に通報しろ」というものがありましたが、私に言わせるとちょっと違うんだな。

むしろ、阿部慎之助も、この動画を撮った連中も、そして、一応この動画の被害者はがんぜない幼児だから怒っているけれど、18を過ぎた阿部慎之助の娘だったらヤッてもいいと勘違いしている大衆も、実は根っこは同じところにいるんじゃないのか、という思いがあります。

どう同じなのかを、以下に書きます。

親の支配を容認・擁護する日本の文化的土壌


まず、大前提として、抵抗できない幼児を一方的に虐待するのは論外です。

さすがに、ここに異論はないですよね。

次に、子どもの日常をSNSに投稿する行為は、「シェアレンティング(Share+Parenting)」と呼ばれ、世界的にも問題視されています

子どもの容姿や行動を、コンテンツとして消費することの倫理的問題、子どものプライバシーや将来のデジタルフットプリントへの影響が指摘されているのです。

私も過去に、子どもたちが火災で遷延性意識障害になったときに、その様子を何度か写真入りで記事にしました。

それは、脳障害はネットでもきわめて情報が少なく、同じような境遇にある方々からの要請もあり、私自身も他の方のブログで情報を得て、精神的にも救われた経験があることから、社会的公益性はあると判断し、もちろん子どもの名前や顔などは隠して、就学までの様子や、リハビリについて公開しました。

ですから私は、このブログを続ける限り、顔出しもしないし名前も出しません。

そこから子供のことがバレるからです。

私自身は、実名で本もずいぶん出してるから、今更何がバレても何も怖くないんですけどね~。

その一方で、子供が有名な大学に入ったと言って、鼻高々で、学校名がまるわかりの創設者の銅像の前で、本人の顔も隠さず撮った写真をブログにアップする人もいますけどね。そこに社会的公益性は?

親の有頂天の代償は、後々、子供本人が引き受けることになるかもしれません。

子を一人の人格として見ることができないのか

私は、このケーキ押し付け動画と、阿部慎之助前監督の事件を、まったく別の問題だとは思っていません。

もちろん、一方は幼児への屈辱行為であり、もう一方は成人した娘への暴力です。表面的には違います。

しかし、その根底には共通するものがあります。

それは、

「親には子どもを好きなように扱う権利がある」

という無意識の思い込みです。

ケーキに顔を押し付けられて泣いている子どもを見て、周囲の大人たちは笑っていました。

なぜ笑えるのでしょうか。

お子さんを一人の人格として見ていれば、恐怖や屈辱を感じていることに気づくはずです。

もし、自分より目上の人だったら、できないでしょ?

阿部慎之助は、相手が原辰徳さんだったら、自分の娘と同じ事はできないでしょ?

ところが、「自分の子どもだから」「家族だから」という感覚が先に立つと、子どもの感情よりも、自分たちの楽しさやSNS映えの方が優先されてしまう。

阿部事件も同じです。

たとえ相手が18歳を超えた娘であっても、襟元をつかみ投げ飛ばすという行為の背景には、

「親だから許される」

という感覚がなかったでしょうか。

日本では長い間、「親のしつけ」という言葉によって、さまざまな暴力や支配が正当化されてきました。

もちろん、近年は法改正も進み、体罰を認めない考え方が広がっています。

しかし、私がここで問題にしたいのは、体罰そのものの議論ではありません。

体罰を支えていた発想です。

「親は上、子どもは下」

「親は子どもを自分の裁量で支配できる」

という思い上がった価値観が、いまだに社会のあちこちに残っていることです。

だから暴力だけでなく、社会的公益性もない子どものプライバシーを勝手にSNSに公開することも起きる。

子どもの進学先や、学校名を嬉々として公表することも起きる。

子どもの失敗談や、恥ずかしい姿をコンテンツ化することも起きる。

形は違っても根っこは同じじゃないですか。

子どもを、一人の独立した人格ではなく、自分の所有物や自己実現の道具として見てしまっているのです。

仏教をコバカにしないで勉強しなさい

仏教には「因縁」という考え方があります。

親と子は固定的な上下関係ではなく、縁によって出会った存在です。

子がいるから親になれる。親がいるから子が生まれる。

親だから偉いわけでもなければ、子だから従属するわけでもありません。

互いに影響を与え合いながら生きる、一人の人間同士、と仏教は教えています。

だから私は、

「だめな子だから体罰した」

という言葉を聞くたびに、嫌悪感すら覚えます。

子どもは親の背中を見て育ちます。

子どもの問題行動だけを見て親が自らを省みないなら、その関係は改善しません。

あなたがその程度の親だから、子もそうなったのではないですか?

もし子どもに問題があると感じるなら、まず親自身が、

「私はこの子を一人の人格として尊重していただろうか」

と問い直す必要があるのではないでしょうか。

子どもを支配の対象ではなく、一人の人間として見ること。

その当たり前の感覚を取り戻すことこそが、体罰や虐待、シェアレンティングの問題を考える上で最も重要なことだと思います。

被害者にも加害者にもならないために SNSから心をまもる本 - 小木曽 健
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