ネットの叩きが問題になっています。不毛な罵詈雑言は論外ですし、そもそも言葉が「浅い」「狭い」「軽い」ことが問題

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ネットの叩きが問題になっています。不毛な罵詈雑言は論外ですし、そもそも言葉が「浅い」「狭い」「軽い」ことが問題

ネットの叩きが問題になっています。不毛な罵詈雑言は論外ですし、そもそも言葉が「浅い」「狭い」「軽い」ことが問題だと思います。ある意見が書き込まれたとして、その背景にはどれぐらいの経験や知識の裏付けがあるのでしょうか。

ネットの叩きが問題になっている記事のまとめサイトです。

最近は、コロナ禍で叩きの期間が長くなっている、という話です。

まあ、長い短いではなく、個人の人格「叩き」という展開自体が不毛だと思いますけどね。


そもそも、その「叩き」に使われる言葉は、不毛な罵詈雑言が論外なのはもちろんですが、一見ひとかどの意見を述べているように見えて、多くは無責任な思いつきだったり、どこかのサイトのコピペを書き込んでわかったつもりになっています。

つまり、ネットは言葉が「浅い」「狭い」「軽い」ことが問題だと思います。

本来あることを述べるためには、その背景に膨大な知識や経験が必要ではないかと思います。

「ゴミのような知識」とはなにか

私の学生時代(文学部)の同級生Kさんが、Facebookで興味深い投稿をしていました。

第1回目の授業のイントロで、「ゴミのような知識を叩き込む」と言われたことが、「3度頭を殴られるような衝撃をうけた」というのです。

「文学は言葉で表現されたものであるが、言葉自体は記号であり作者が伝えようとしたモノ自体ではない。伝えようとしたモノは、作者の手により記号化され、読者により複号されることにより伝達される。ただし、その記号化と複号化の方法は経験、文化、時代背景より異なってしまう。 … (その後話は文学の研究と考古学の繋がり、考古学のフィールドワークの重要性へと移っていく)」  コミュニケーションの基礎の基礎ではあるが、私はこの時初めて整理された説明をうけた。

「何かを(客観的に)考えるには、その基礎として大量のゴミのような知識が必要となる。僕の講義では学問として文学を行うために必要となる、そのゴミのような知識を君たちに叩き込む。」


私はまあ、難しいことはわかりませんが(笑)、要するに、何かを伝えるためには「そのこと」だけでなく、一見大事ではなさそうなその周辺のことも知らなければならない、ということだと解しました。

たとえば、鎌田敏夫さんという脚本家がいます。

『飛び出せ!青春』『俺たちの旅』『男女七人夏・秋物語』などを書かれた方です。

鎌田敏夫さんは、脚本を書くとき、登場人物だけでなく、ドラマには出てこないその人の家族や友達の名前や性格、好きな食べ物まで想定したそうです。

どんな環境でどういう人と関わっているか、ということが明らかになってこそ、そのキャラクターが生きてくるというわけです。

世の中の事象はすべて、それが単独で起こっているわけではなく、他との連関の中で起こっていることに例外はないわけです。

つまり、1を伝えるのには、その10倍の周辺を認識していなければ真実には肉薄できない、というわけです。

冒頭の「ゴミのような知識」というのは、文学のあれこれを語るときに、そのことだけでなく、その関連の知識がなければ、客観的にそれを伝えることはできない、ということだと思います。

映画をたくさん見ただけでは映画評論家にはなれない

翻って、いまのネット掲示板はどうでしょうか。

もちろん、中身のない叩き目的だけの罵詈雑言は論外ですが、かりに異論反論らしきものが書かれていたとしても、その人はそれをどれぐらい理解しているのでしょうか。

ググって出てきたどこかのサイトから、該当箇所をコピペして書き込んでいるだけではないでしょうか。

一言の反論について、その10倍の「ゴミのような知識」をもっているのでしょうか。

言葉だけの世界は、誤解が生じやすい、などといいます。

それは間違いではありませんが、それだけでなく、そもそもその言葉が、「浅い」「狭い」「軽い」ことが問題ではないのでしょうか。

だいたい、そのコピペするもとのサイト自体が、「浅い」「狭い」「軽い」だったらどうなのでしょう。

「浅い」「狭い」「軽い」の2乗で、隙だらけの説得力のないものになってしまいます。

それでは、誤解や揚げ足取りや論点ずらしなど、混乱への誘いにしかならないでしょう。

私が今も更新している、ある無料ブログサービスで、「言葉の革命」なる意味不明な旗を掲げて、芸能やスポーツの論評に勤しんで自己満足しているブログがあります。

その書き手いわく、「言葉は魔力です」といい、私は映画をたくさん見ているから、芸術的な映画を美しい言葉で語れる自信があるとし、〇〇の作品の〇〇のシーンはかのごとく素晴らしいシーンだったと感想文を書いています。

それだけならいいのですが、近頃のライターは力不足だから、原稿以来は私に、と売り込みも書かれています。

でも、私は編集者として、そいつを使おうとは冗談にも思いませんでした。

その人物は自己愛が強く、学業も仕事も、結果が出ないことが許しがたいらしく、大学も行かず、予備校の先生(兼営業)になったらしいのですがそれも長続きせず、いくつかアルバイトも経験したものの定職にはつかず、そのうち母親が病気になったので、いよいよ介護を口実に安心して無職になったわけです。

つまり、世の中から逃げてばかりの人間です。

その分、まる1日テレビだろうがネットだろうが自由に見られますから、BSやネットで鑑賞できる映画を見まくって、好き勝手な作文に勤しんでいます。

もちろん、映画をたくさん見ることは大切ですが、それで映画の評論家になれたら苦労はありません。

自己愛から社会で何も苦労せず、逃げてばかりで経験という勉強をしていない人物が、どうやって「ゴミのような知識」を身につけるのでしょうか。

映画を見たから映画評論家になれるんじゃなくて、自分の経験や学習から獲得した「ゴミのような知識」でその映画を関連づられるからこそ、不特定多数に対してその映画を伝えることができるようになるのです。

ブログにしろ、SNSにしろ、商業出版とは違い、無名の一庶民でも簡単に意見表明できるネットというのは、考えてみればすごい媒体です。

それだけに、発言(投稿)は自覚が求められます。

あなたが書こうとしていること。

その周辺の「ゴミのような知識」はちゃんとありますか。

以上、ネットの叩きが問題になっています。不毛な罵詈雑言は論外ですし、そもそも言葉が「浅い」「狭い」「軽い」ことが問題、でした。

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