「銀座で飲んでいるのは今や坊さんだけ」―そんな言葉を聞いたことがありますか。また「坊主丸儲け」ということわざも存在

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「銀座で飲んでいますのは今や坊さんだけ」―そんな言葉を聞いましたことがありますか。また「坊主丸儲け」ということわざも存在します。世間には、元手がかからず高収入を得ていますという昔ながらの僧侶像が根強く残っています。しかし、これは果たして真実なのでしょうか。

「銀座で飲んでいるのは今や坊さんだけ」―そんな言葉を聞いたことがありますか。また「坊主丸儲け」ということわざも存在します。世間には、元手がかからず高収入を得ていますという昔ながらの僧侶像が根強く残っています。しかし、これは果たして真実なのでしょうか。

2025年1月29日に吉川弘文館から出版された田中洋平さんの『住職たちの経営戦略: 近世寺院の苦しい財布事情』は、こうした通念に真っ向から挑戦します内容です。本書は江戸時代の寺院が直面している経済的困難を詳細に描写しながら、現代の仏教界の実情をも考えさせてくれます。

江戸時代の寺院経営は「特権」ではなく「苦闘」の歴史だった

本書が明らかにするのは、江戸時代における寺院経営の意外な実態です。表面的には幕府からの特権を享受しているように見えたものの、実際には多くの零細寺院が経済的に困窮していたといいます。

具体的には、人口減少や信仰心の衰退による収入減少、檀家との対立、地域社会との関係維持の困難さなど、現代と驚くほど類似した問題に直面していました。

重要なのは、現代の寺院経営の問題が、過去からの延長線上にあるという指摘です。

現在の寺院も、少子高齢化や都市への人口流出、檀家の減少といった問題に直面しています。

これらの歴史的背景を理解することで、現代の課題解決のヒントが得られるというのです。

要するに、昔も今も多くの寺院は経済的に大変である。その理由は共通している、というのが本書の核心的なメッセージです

日本仏教の特殊性と経済基盤の脆弱さ

日本に仏教が伝来したのは6世紀半ばとされます。聖徳太子によって導入され、国家が仏教を保護・利用することで国全体の安定や繁栄を図ろうとした「鎮護国家」の思想が特徴的です。

インドや中国では、僧団単位で活動し、托鉢で生計を立てていたため、世間の信用を得るための厳格な規律が必要でした。

一方、日本では国に保護されていたため、そのような自律的な規律を作る必要がなく、托鉢による自活の伝統も弱かったのです。

とはいえ、寺院の維持は自ら行わなければならず、檀家からのお布施で経営を成り立たせていたため、収入は不安定だったのです。

現代でも、土地のある寺院は幼稚園や駐車場、アパート経営などで収入を得ていますが、都市部の狭小寺院では葬儀や法要のお布施、永代供養料、寄付のみが収入源となっている場合が多いようです。

「富裕層」と「大多数」のギャップ~寺院経済の実態

明確な統計データはないものの、「多くの調査や研究報告から、全国の寺院の約6割が経営難に陥っているという見方が一般的」です。

にもかかわらず、「坊主丸儲け」というイメージがなぜ根強いのか

これは一般社会の経済格差と相似形です。

ごく一部の「富裕層」の僧侶や寺院が持つ派手なイメージと、大多数の寺院が直面する厳しい現実との間に大きなギャップがあります。

一般国民の間でも、「富裕層」とそれ以外の人の年収の「平均値」や「中央値」に乖離があるように、寺院経済も二極化が進んでいるのです。

根本問題は「信仰で結ばれていない寺院と檀家の関係」

では、昔も今も寺院が経済的に苦しむ「共通した理由」とは何でしょうか。

私見では、寺院と檀家(信徒)が信仰で結ばれていないことが根本的な問題だと思います。

江戸時代には、寺請制度により人々は信仰以前に「決まり」として寺院と付き合わざるを得ませんでした。

現代では「葬式仏教」などと批判され、冠婚葬祭のときだけの表面的な関係になりがちです。

そんな薄い関わり方では、人々は仏教を支えようとは思わないでしょう

しかし、実際には、私たちの生活に仏教の教えの影響は広く深く及んでいます。

無意識のうちに仏教的価値観に影響を受けている人は多いはずです。

ですから、日本の文化に必要な宗教であることは間違いありません。

仏教に世話になっている人は、もっと仏教としっかり向き合ってほしいと思います。

寺院側も、葬式や法事のお布施で満足せず、人々との関係をより深める方向に努力してほしいと思います。

「葬式仏教」からの脱却~信仰の本質へ

私が常々主張しているのは、「信じていないやつが葬式・法事仏教はするな!」ということです。


「四十九日まで毎週集金に来て一周忌、三回忌…百回忌。坊主丸儲け。法事鬱になりそうである。宗教って心の安らぎ与えてくれるんじゃないの」

確かに、経済的負担が大きいと感じる気持ちは理解できる。

しかし、檀家や信徒は契約で縛られているわけではなく、いつでも離檀できるはず。金銭的負担を感じながら続けるのは、自分自身の選択の結果でしょう。

せっかく縁あってお寺と付き合いがあるのなら、それは前向きに仏教を理解するチャンスと捉えるべきではないでしょうか。

どうしてもそう思えないなら、仏教と距離を置くことも一つの選択肢です。

信じていないものを、文句を言いながら付き合い続ける。こんなに不幸なことはないですよ。

一方で、「いや、自分は信じていないんだけどね」と断りながら、葬式や法事では住職を招く人も多い。

仏教徒であることが、それほど外聞が悪いことなんですか?

個人の信仰と社会的慣習の間で

私自身は、親類と祭祀承継でもめたため、菩提寺との付き合いを絶ちました。

でも、仏教の教え自体には他の宗教にはない深い道理を感じ、本来は唯物論者でありながら、仏教学の博士課程まで進みました。

『バカの壁』の著者である養老孟司先生は、特定の宗派の檀家ではないものの、自己紹介で「仏教徒」と名乗っているそうです。

その気持ち、よくわかります。

宗派や寺院との形式的な関係ではなく、仏教の教えそのものに価値を見いだす態度です。

結論として、

「坊主丸儲け」というイメージは虚像であり、現実には6割の寺院が経営難に直面している。
仏教に限らず、宗教の本来のあり方は、本当に信じるから支えられる

ということです。

私たちはお彼岸のお墓参りを通じて、祖先と向き合い、自分自身の生死観を養う機会を得ています。

そうした仏教の文化的・精神的価値を見直す時期に来ているのかもしれません。

寺院側も、単なる儀礼執行者から、人々の精神的支えとなる存在へと変容を遂げる必要があります。

そして私たちも、仏教との関わり方を主体的に選択し、より深い理解を求める姿勢が求められています。

歴史を振り返れば、寺院は常に経済的課題と向き合ってきました。

しかしその本質的価値は、経済的豊かさではなく、人々の精神的よりどころとしての役割にあります。

過去と現在の寺院経済の苦闘から学び、真に持続可能な仏教の未来を構想するときが来ているのです。

お彼岸のお墓参りは、いかれましたか。

それを単なる習慣としてではなく、仏教と向き合う機会としていただければ幸いです。

住職たちの経営戦略: 近世寺院の苦しい財布事情 (歴史文化ライブラリー 614) - 田中 洋平
住職たちの経営戦略: 近世寺院の苦しい財布事情 (歴史文化ライブラリー 614) – 田中 洋平

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