宗教は人の心の安寧に不可欠と言われます。しかし、宗教が「自業自得」や「前世」で人生も社会も説明してしまうのは違和感あり

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宗教は人の心の安寧に不可欠と言われます。しかし、宗教が「自業自得」や「前世」で人生も社会も説明してしまうのは違和感あり

宗教は人の心の安寧に不可欠と言われます。しかし、宗教が「自業自得」や「前世」で人生も社会も説明してしまうのは違和感があります。世の中は偶然や不可抗力があり、「前世」や「来世」があろうがなかろうが、今の自分の人生は1度きりですから。

宗教は私にとってなんの役にもたたなかった

みなさんは、自分の人生をどう思われますか。

要するに、いい人生か、悪い人生か。

幸福か、不幸か。

それは、自分ががんばったからか、ほしのもとのせいか。

私は結論から述べると、自分は決して幸せでも幸運でもない人生だと思っています。

まあ、どうとらえているかというのは「主観」ですから、同じ経験をしても、思いは様々かもしれませんので、私の経験の一部を客観的に書き出すと……。

  • 毒親
  • 幼くして片親
  • 毒妹
  • 火災で妻子が意識不明の重体、妻は心肺停止、子は重度障害、そして無一文
  • 介護や祭祀承継を押し付けられて肉親や親類と泥仕合

まだいろいろあるんですが、自分に全く責任がないことでも、これだけ決定的な不幸を経験しています。

つまり、直接間接に「ほしのもと」が悪い、と思っています。

毒親ぐらいなら、私以上の悲惨な経験者はほかにもおられるでしょうが、さすがに火災の経験はそうそうないでしょう。

火災事故わずか数行の記事で「放火の犯人」を決めつけるネット民の悪癖は当事者に大変迷惑な影響を及ぼすことを考えて欲しい
火災事件が増える季節です。14日夜に発生した長野県佐久市臼田の歯科医宅火災は、4名のお子さんが焼死した痛ましい結果となりましたが、Web掲示板ではいつものようにわずか数行の記事で「放火の犯人」を詮索する興奮ぶり。倫理観と民度を心配しています。

しかもこの関連で、言いがかりの裁判を起こされたり、親類とは絶縁したりと、不幸はさらに続いているんですけどね。

さすがに火災の時は、なにか慰めはないかと思い、あまり期待はしていなかったけれど、父方祖父母の墓の菩提寺(浄土真宗)から送られてくる会報に目を通したのです。

ところが、そこには、不幸があっても「なんでもひとのせいにするな」「悪口を言うな」というようなことが書いてあり、がっかりしてしまいました。

だったら、何でも自分のせいというのか。

自分が悪いと言ってればいいのか!

もし、その通りに火災についても自分を責めていたら、私は事の重さを受け止めきれなくなり、頭がおかしくなっていたかもしれません。

そもそも私が火をつけたわけでもありませんしね。

もともと、私に特別な信仰はありませんでしたが、個人の事情や価値観に寄り添えない宗教をそのときほど無力なものと思ったことはありませんでした

宗教を否定しているわけではありません。

何でもないときなら、拝むだけで心の安寧は得られるでしょう。

でもね、人間、本当に窮地に追い込まれたら、宗教も含めて実は何も頼りにはならず、結局は自分自身しかない、ということを思い知らされるという話です。

「ほしのもと」を宗教はいったいどう説明するのか

そこで私は、Yahoo!知恵袋にこんな質問をしました。

「自業自得」論の限界について

お寺の人生相談を利用させていただくのですが、そこで言われるのが「自業自得」
善業善果、悪業悪果。

自分自身が行った善行に対して善果を得、自分自身が行った悪業に対して悪化を得るという教えです。

しかし、「ほしのもと」も、物事の成り行きも、それでは説明が付きません。

たとえば、虐待される子供は、いったいなんの悪行を行ったというのでしょうか。

貧乏な家に生まれて進学できなかった人は悪業悪果を、裕福な家に生まれて経済的な制限を受けずに自己実現した人は善業善果をいったいどこで行ったというのでしょうか。

マイケル・サンデルさんのいうように、「実力も運のうち」という方が、よほど現実を見ています。

人生も世の中も、偶然(いわゆる運)と必然が重層的に糾って成り立っています。

「自業自得」などは、そのうちの「必然」の一部であり、それだけで何かを説くというのは、合理的でないと思いますが、宗教ってそんなもんなのでしょうか。

 

ここでいう「サンデル先生」というのは、話題になった『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(マイケル・サンデル・著 鬼澤忍・訳/早川書房)のこと。

努力も能力も、しょせんどういう「ほしのもと」かによって影響されているという話です。

「親ガチャ」という言葉がが流行しましたね。

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』は「親ガチャ」というキーワードが話題。境遇は運次第、本人には選べないという意味です
『実力も運のうち 能力主義は正義か?』は「親ガチャ」というキーワードが話題。境遇は運次第、本人には選べないという意味です。しかし、同じ境遇ならすべて同じ人生かと言うと必ずしもそうとは限らず、やはり人生は偶然と必然といえそうです。
「学歴は努力の結果だと思っていた…」サンデル先生の『実力も運のうち能力主義は正義か?』が心中穏やかでないエリートが続出
「学歴は努力の結果だと思っていた…」サンデル先生の『実力も運のうち能力主義は正義か?』が心中穏やかでないエリートが続出という記事が話題です。お勉強社会が公平さを欠いているという指摘に、自分の努力を否定されたような気がしているらしいのです。

それに対して、どんな回答があったか。

そのまま引用・枚挙します。

回答

ID非公開さん
2021/11/23 22:20
「因果応報」
https://blog.goo.ne.jp/shourinzi1972/e/256cc724e0cabcc59b64a9a0c6f74acc
「宿業の重罪を消滅する方法」
https://www.myotsuuji.info/%E6%A5%AD-%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%9E-%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/
「陰徳陽報」
https://blog.goo.ne.jp/shourinzi47320/e/2d45f0068da499a1f55ee3266e0ea20e

zys********さん
2021/11/17 18:20

>善業善果、悪業悪果。
善業は楽果であり、悪業は苦果です。
果報に善悪はありません。
仏教には三時業という教えがあります。
善悪の業を、その結果を受ける時期によって三種に分けたもののことです。

「順現法受業(じゅんげんぽうじゅごう)」
現世で業をなして、その報いを同じ世で受ける業。
「順生受業(じゅんしょうじゅごう)」
その報いを次の世で受ける業。
「順後受業(じゅんごじゅごう)」
その報いを次の次の世(第三生)以降で受ける業。

この三時業からいうなら、今世で悪党だったものが来世で良い生まれをするものもあり、逆に善良なものが酷い生まれになることもあるということです。
良いこともし、悪いこともするのが人間です。
それらが異熟し、いつ、どのように果報となるかは、仏にしか分からないとブッダは言っています。
ただ、業の持つ潜勢力によって必ず果報はあるということです。

アルシオーネさん
カテゴリマスター
2021/11/17 16:39

因果応報ですね

世の中で起こっている事の大半が
この因果応報で成り立っていると理解していれば良いほど
因果応報は色んな所で起こっているのが解ると思います!
ぜひ、そう言う目線で物事を見て見られたら良いかと思います。

私達は根本創造主の作り出した世界の中で生きており
この世のルールーの中で生活しています
これを「摂理」と言いますが
「因果応報」と「魂の自由」をもって
「魂の平等性」を確保しています。

ただ、この報いが起こるタイミングが
私達に解り難いので実際に起こっているのかどうかが解り難いのです。
それは、霊の世界では時間が無くなるので
何かを起こした結果が直ぐ出るか
来世にまで持ち越すかと言う事です。

今世であろうが、来世であろうが必ず起こります。
それが「摂理」と言う物です。

魂とか前世と言う話になると
疑って見られる方もおられ、その事は自由ですが
確実に無いと解るまでは
一応、存在していると思って生きている方が良いですね。

因果応報
https://alcyon.amebaownd.com/pages/2850611/page_201905081026

それと
目に余る悲惨な事件があります。
あまりに気になる時は
以下のように理解すれば少しは、
気持ちが楽になりますよ!

例えば悲惨に見える殺人事件、事故
私達には今と言う現実の中で結果だけを見ているので
悲惨に見えるかも知れませんが
実際の殺人事件、事故ではその90%が魂レベルでは
同意の元で行われているそうです。

1)お互いの魂がそれぞれの過去世のカルマの解消をしようとしているケース

2)その行為が報道とかされて世の中に大きな影響を与え
その結果、法律が変わり、さらにはより良い社会になる事を理解して
お互いに約束事のように殺人事件、事故になるケース

3)それ以外は、生きている現実だけしか見えない人が
自分の我欲に負けて行う殺人等、新たなカルマの生成と言うケースです。

愚かな私達には
(1)(2)(3)のどのケースで事件が起こっているのか解り難いですが
その後、新たな法律が出来たりしている時は
(2)のケースの可能性が高く、
魂レベルでの合意の下に行われた事件だと推測されます。

殺される側は、自らの死をもって世の中に変化を加えようとするような
立派で勇敢な魂の持ち主で
罪を犯す犯人を魂レベルで解った上てその人に近づく訳ですね。
https://alcyon.amebaownd.com/

Inotinetさん
2021/11/17 14:53

>虐待される子供は、いったいなんの悪行を行ったというのでしょうか。

その子が悪いことをしたということではなく相手を虐待させるような存在であったということです。悪しき運命を背負っている。運が悪かったということです。

ストーカーに親切にしたせいで付きまとわれるなんてこともあります。

「恩が仇になる」ことだっていくらでもあります。

そしたら、何をしたって駄目では教えになりません。

「善因楽果 悪因苦果」は一応の法則です。状況次第で別の展開があるということです。
しかし、悪因苦果は100%と思います。

pen********さん
2021/11/17 9:02

仏教は宗教的に全てを説いているのでは無い事を認識して下さい。
宗教は根本が何かを教えている学問です。

e_y********さん
2021/11/17 4:23

お寺の 坊主といっても 1人の人間でしか ありません。 上から目線で
説教を説いても 眠くなるだけで 心には響かない 神様では無い 同じように 屁もすれば 糞もするし 欲もある 困った時の 神頼み 目に見えない 存在しない物に頼っても 何も
変わらない。

The Seekerさん
2021/11/17 4:19

基本的に宗教はどれもそうですが、今世での不幸は前世での行いによる結果であると説いています。

今世で虐待されるのは前世で虐待をしたから、って感じです。

 

ということです。

一応、引用サイトを入れておきます。

宗教では人生も社会も説明できない!?「自業自得」の限界お寺の人生相談を利用させていただくのですが、そこで言われるのが「自業自得」 - 善... - Yahoo!知恵袋
宗教では人生も社会も説明できない!?「自業自得」の限界お寺の人生相談を利用させていただくのですが、そこで言われるのが「自業自得」 善業善果、悪業悪果。自分自身が行った善行に対して善果を得、自分自身が行った悪業に対して悪化を得るという教えです。しかし、「ほしのもと」も、物事の成り行きも、それでは説明が付きません。たとえば...

みなさんは、いかがお考えですか。

なんだかんだ言っても人生は1度きり

結局宗教は、「前世の因縁」というワイルドカードで逃げていると思いませんか。

それをいわれたら、何も答えようがないですよね。

そんなもん、科学的な根拠はありませんが、だからといって「ない」とも言えない。

不在証明は論理的に不可能ですから。

でも、前世だの来世だのが、もしあったとしても、現世の自分(の人生)は1度だけなんです。

これは、間違いのない真理ですよね。

その1度だけの人生。

悔いや不条理さを感じないで済むような日々を送りたいですね。

以上、宗教は人の心の安寧に不可欠と言われます。しかし、宗教が「自業自得」や「前世」で人生も社会も説明してしまうのは違和感あり、でした。

カルト宗教信じてました。 - たもさん
カルト宗教信じてました。 – たもさん

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