
昨今、政界では学歴・経歴詐称疑惑が相次いで報じられています。東京都の小池百合子知事の「カイロ大学」問題に始まり、田久保真希前伊東市長の「東洋大卒業」騒動、高市早苗首相の「コングレッショナル・フェロー(連邦議会立法調査官)」をめぐる経歴の曖昧さ。
高市早苗総理の肩書については、現在は公式プロフィールでもより正確とされる「Congressional Fellow」に修正されており、公式の「立法調査官(Legislative Investigator / Researcher)」という正規職でないことは事実上ご自身が認めたと思える形になっています。
ところが、公人の中の公人である高市総理の経歴に「ほころび」が見えているにもかかわらず、なおも「信じたい」という声も根強いですね。
擁護論の中で、しばしば耳にするのが次のような釈明です。
「政治家なんて誰でも、大なり小なりスキャンダルや間違いはあるものだ。政策さえ良ければ、多少のことは方便として大目に見てもいいじゃないか。」
政策の是非はひとまず置くとして、はっきりさせておきたいのは、詐称は方便ではなく、ただの「ウソ」であることです。
騙す意図があろうがなかろうが、「立法調査官」を名乗ること自体に問題があるのです。
方便と嘘のはざま
経歴・学歴だけが問題ではありません。
たとえば、「選択的夫婦別姓」をめぐって、立憲民主党の辻元清美議員は、「国際基準である選択的夫婦別姓」と発信していますが、実はそのような「国際基準」など公式にはどこにも存在しません。
つまり、これは事実に反する虚偽の主張です。
嘘で国民を動かそうとするのも「方便」と言えるのでしょうか。
オリパラ参加国(206カ国)の中で「法律で婚姻後の氏を同一にしなければならないと規定しているのは日本だけ」と答弁した丸川大臣。オリパラ兼男女共同参画大臣として、国際基準である「選択的夫婦別姓」を実現することこそが本来のお仕事では?地方議会に文書送って、圧力かけるなんて絶対アカン。 pic.twitter.com/Kae0jZLDvY
— 辻元清美 (@tsujimotokiyomi) March 5, 2021
また、社民党の福島みずほ議員は、そもそも「選択的」ではなく、婚姻は強制的に別姓であるべきという「絶対的夫婦別姓」の立場を取っています。
彼女にとっては、「選択的別姓」の実現は、あくまで最終目的への「一里塚」。
すなわち「方便」にすぎないのでしょう。
しかし、本来の目的を隠して眼前の主張を進めるのは、やはりフェアな姿勢とは言えません。
私が、家制度否定派なのに、この人たちと同じ旗を掲げられない(両手を上げて選択的夫婦別姓に賛成できない)のは、ウソや隠し事をする人といっしょにはやれない、信用すべきではないとおもう気持ちもあるからです。
仏教における「方便」の重みと教訓
「方便(ほうべん)」とは、ある目的を達成するための「巧みな手段」や「一時的な方策」を指す仏教用語です。
仏教はの本来の狙いは、人々を真実の教えへ導くための、思いやりと知恵を込めた仮の手段という意味を持ちます。
しかし、政治家の詐称や言い訳の説明に、そうした「思いやり」や「知恵」を感じることはありません。
隠し、誤魔化し、煙に巻く。
それは国民を愚弄する行為にほかなりません。
仏教では、『法華経』というお経の「寿量品」において、お釈迦様が「人々を救うためなら、方便としてウソを言っても構わない」という論理を肯定しているとされます。
この考え方は、一見寛容に映りますが、歴史的に見れば危うさもはらんでいました。
戦時中、多くの仏教宗派は、「相手を救うためならルールを変えてもよい」という方便の論理を都合よく解釈し、国家権力や軍部の要請におもねる形で教義を歪曲し、戦争協力へと加担しました。
戦後、たとえば浄土真宗はその反省から、方便が暴走しないよう現代の私たちはどうブレーキをかけるべきかという議論を重ね、公式サイトでは公人の靖国参拝を批判するメッセージを掲げるに至っています。
また、かつての一向一揆のように、権力者からの弾圧に対して、門徒たちが「信仰と共同体を守るため」に武力を取ったケースについては、今もなお評価が分かれ議論が重ねられています。
戒律上「暴力」は許されないが、「自衛・利他のための方便」として許容されるのか。
それこそが、善意の暴走についての深い議論ではないでしょうか。
これらと比べたら、政治家の「方便」とされる言い訳のなんと浅はかで、自己中心的であることか。
古賀千景議員の発言をめぐる「方便」のねじれ
先ごろ、古賀千景議員が「自衛隊は貧乏人が行くところ」と発言したことについて、古舘伊知郎氏は次のように擁護しました。
「切り取られたところだけで騒ぐな。彼女は平和教育に取り組んできた人物だ。全体を見れば、あの発言も思想の一部として理解できる。」
これもまた、「平和教育のための方便」というロジックです。
しかし、「自衛隊員=貧乏人」という発言が、どうしたって「平和教育」の文脈に結びつかないでしょう。
むしろ、それはネガティブ・キャンペーンとして機能し、自衛隊志願者の減少→憲法改正による自衛隊明記→強制的な「徴兵制」への道筋すら連想させます。
方便の皮をかぶったこじつけは、しばしば本質を見えにくくする良い例です。
私たちは「大目に見る」をやめられるか
私は、政治家の「方便」と称する言動から、好ましい結果が生まれた例を寡聞にして存じません。
だからこそ、「この人は日本を良くしようとしているのだから、細かいことは目をつぶろう」という擁護論もまた、危ういと思っています。
たとえ自分が支持する政治家であっても、おかしな点があれば「それは間違いだ」「そのやり方はおかしい」と指摘する。
その積み重ねが、政治家の質を変え、政治全体の透明性を高めるのではないでしょうか。
たとえ、それがご贔屓の政党や政治家だったとしても、間違いやウソについては、「方便」という言葉でごまかさず、嘘は嘘と見抜く眼と、勇気と見識の声を、持ち続けていますか。

嘘つき人間学: 嘘も方便、バカはどっちだ (ワニ文庫 A- 21) – 増原 良彦


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