最近、「重度の障害を持って生まれた子の安楽死が認められる社会である方が良い」というXのポストが、物議を醸しています。

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最近、「重度の障害を持って生まれた子の安楽死が認められる社会である方が良い」というXのポストが、物議を醸しています。

最近、「重度の障害を持って生まれた子の安楽死が認められる社会である方が良い」というXのポストが、物議を醸しています。この発言は、一般的な「安楽死」という倫理的議論ではなく、障害者をターゲットとして名指したことがこれまでの「安楽死」議論とは異なる点です。

しかも、ポスト主が医師だというのです。

「障害を持って生まれた子どもは大変だから、親がその子の安楽死を選択する権利があってもいいんじゃないか」と言っているのです。

このような言説の背景にある問題点と、なぜそれが危険なのかを考察します。

「障害者の安楽死」というフレーミングの問題性


今回のツイートはまず、「重度の障害を持った子」と限定することで、「安楽死」という本来幅広く倫理的検討を要する問題を、障害者という特定のグループの存在価値の問題にすり替えている問題があります。

これは単なる言葉選びの問題ではありません。

この設定自体に、「障害がある=生きる価値が低い」という優生思想の色濃い前提が織り込まれているのです。

安楽死という倫理的・哲学的・医学的議論を、本当に真面目に議論する気があるのなら、特定の属性を持つ人々を名指すことなく、人間の尊厳や自己決定権という普遍的な観点から議論すべきです。

命の価値を誰が決めるのか


問題のツイートでは、「両親に責任を負わせ続ける社会は、余りにも当事者達に無慈悲過ぎる」と述べています。

しかし、ここで「当事者」として想定されているのは障害児本人ではなく、あくまでその親です。

このロジックでは、障害児本人が主体的な当事者として扱われておらず、その命の価値を他者(親)が判断できるという危険な前提が含まれています。

人間の命の価値は、その人の障害の有無や程度、あるいは社会的役割によって決まるものではありません。

すべての人間が等しく生存の権利を持ち、その権利は侵害されるべきではないという原則は、現代社会の基本的な人権の土台です。

支援不足の社会構造の問い直しを欠いた議論


ツイートで「両親に責任を負わせ続ける社会」という表現は、問題の本質を見誤っています。

障害のある子どもの養育が困難なのは、そもそも社会的支援が不足しているからではないでしょうか?

障害の「社会モデル」の視点から考えると、障害は個人の問題ではなく、社会環境との相互作用によって生じるものです。

十分な支援制度、バリアフリー設計、インクルーシブな教育環境があれば、障害のある子どもを育てる負担は大きく軽減されます。

この議論で必要なのは、「安楽死の是非」ではなく、「なぜ障害児とその家族への支援が不足しているのか」という社会構造への批判的視点です。

課題解決の方向性を誤れば、本来社会全体で取り組むべき問題を、個人や家族の責任に矮小化し、さらには「生命の選別」という非人道的な方向に議論をスライドさせてしまいます。

障害当事者の視点の欠如


この議論で最も欠けているのは、障害当事者の声です。

当事者団体は繰り返し、「私たちのことを、私たち抜きに決めないで」と訴えています。

障害のある人々自身が「自分たちの命は価値がない」と考えているのではなく、むしろ社会的障壁に対する怒りや、支援の充実を求める声を上げています。

日本自立生活センター(JCIL)など障害当事者団体は、安楽死の議論が障害者の存在価値を否定する文脈で語られることに強く抗議しています。

彼らの主張は明確です。問題なのは障害そのものではなく、障害のある人々が尊厳を持って生きられる社会的支援の不足なのです。

優生思想との危険な接続

「障害者の安楽死」という議論の枠組みは、歴史的に見れば優生思想と密接に結びついています。

優生思想は19世紀後半にフランシス・ゴルトンによって提唱され、「人類の遺伝的素質の向上」という名目の下、「望ましくない」とされる人々を排除することを正当化してきました。

最も極端な例は、ナチス・ドイツの「T4作戦」と呼ばれる障害者抹殺計画です。

この歴史的事実を忘れてはなりません。「社会的負担」や「家族への負担」という言説は、過去において最も忌まわしい人権侵害を正当化するために使われてきたのです。

命の選別ではなく、支援の充実を

安楽死という医療倫理の議論は、特定の人々の存在価値に疑問を投げかける文脈で行われるべきではありません。必要なのは、すべての人が尊厳を持って生きられる社会の実現です。

現実的な対策としては:

1.障害児とその家族への包括的な支援制度の拡充
2.レスパイトケアなど家族の負担を軽減するサービスの充実
3.インクルーシブ教育の推進
4.障害当事者の意思決定支援
5.バリアフリー社会の実現
6.これらの社会的取り組みがないままに「安楽死」を議論することは、社会の責任放棄にほかなりません。

議論の枠組み自体を問い直す

「重度の障害を持って生まれた子の安楽死」というフレーミング自体に、既に特定の価値観が含まれています。このような議論の立て方こそが、優生思想を無意識のうちに再生産し、障害者差別を助長するのです。

安楽死に関する倫理的議論は、すべての人間の尊厳を前提とし、個人の自己決定権や苦痛からの解放という観点から議論されるべきであり、特定の属性を持つ人々を名指すことで、その存在自体を「問題」とするような議論の枠組みは断固として拒否すべきです。

命の価値を障害の有無で測るのではなく、すべての人間が等しく尊厳を持って生きられる社会を目指す??それこそが、私たちが本当に目指すべき「良い社会」の姿ではないでしょうか。

人間としての尊厳: ノーマライゼーションの原点・知的障害者とどうつきあうか - スウェーデン社会庁, 二文字理明
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