「政策はいいのに」という声があがる山尾志桜里氏ですが、その政策内容を詳しく検証すると、実は多くの問題点と矛盾が浮かび上がってきます。彼女の政策論は、表面的な耳心地の良さの裏に、深刻な一貫性の欠如と実効性への疑問が潜んでいます。
憲法論の政治的便宜主義
山尾氏の最大の問題点は、憲法に対する立場の一貫性のなさです。
立憲民主党時代には、「立憲的改憲」という造語で護憲派を装いながら、国民民主党に移ると一転して「憲法9条2項改正」「スパイ防止法制定」を「右でも左でもない真ん中の政策」と主張しはじめました。
この転換は、決して政策の進化ではなく、たんなる所属政党の方針に合わせた政治的便宜主義です。
立憲民主党時代の2019年には、党内で、「改憲論議に積極的に応じるべき」との発言が「異彩を放つ」と評され、党幹部から「目立ちたがり屋は困る」と苦言を呈されていました。
つまり、当時から党の方針と乖離した発言を繰り返していたのです。
山尾氏は、「立憲的改憲」という概念で、憲法改正を権力統制の観点から捉えると主張していたが、これは結局のところ、護憲派と改憲派の両方から支持を得ようとする政治的な曖昧戦略のそしりを免れません。
国民民主党に移ってからは、この曖昧さを捨て、より明確な改憲論者として振る舞っていますが、これは一貫した憲法観に基づくものではなく、政治的な立ち位置の変化に合わせた変節と言わざるを得ません。
「保育園落ちた日本死ね」の政治利用と責任回避
山尾氏の代表的な「政策実績」とされる「保育園落ちた日本死ね」ですが、これも詳しく検証すると問題があります。
まず、この匿名ブログを国会で取り上げる手法が、適切だったかという根本的な疑問があります。
国会という公的な場で、匿名の、しかも「死ね」という過激な表現を含む投稿を政治材料として使用することの是非については、当時から議論がありました。
さらに問題なのは、この問題を政治利用した直後に、山尾氏自身の「ガソリーヌ疑惑」が発覚したことです。
2016年に、「保育園落ちた日本死ね」で流行語大賞を受賞した際、多くの人が指摘したのは「自分の疑惑の説明が先ではないか」という点でした。
つまり、他人の問題を政治的に利用しながら、自分の問題については説明責任を放棄する姿勢が露呈したのです。
山尾氏は最近のインタビューで、「今の自分であれば、分断を避ける別の提起の仕方もできた」と述べていますが、これは後知恵的な弁解に過ぎません。
当時の対応が、「政治家として未熟」だったと認めながら、その同じ人物が今度は「変わった」として国政復帰を図ろうとしているのは、都合が良すぎるのではないでしょうか。
安全保障政策の現実認識の甘さ
山尾氏は安全保障政策について「自分の国は自分で守る」という当たり前の原則を掲げているが、その具体的な政策内容は極めて曖昧だ。
「憲法9条2項改正」「スパイ防止法制定」「外国人土地取得規制」といった政策項目を並べています、れらがどのような優先順位で、どのような手順で実現されるかの具体的なロードマップは示されていません。とくに、これらの政策が国民民主党の基本的な立場と整合するかどうかも疑問です。
また、「ウクライナ戦争を見ても、自分の国は自分で守る姿勢を見せないといけない」と述べていますが、ウクライナ戦争から学ぶべき教訓は単純な「自主防衛論」ではなく、同盟国との協力、国際法の重要性、外交的解決の追求など、より複合的なものであるはずだ。山尾氏の安全保障論は、複雑な国際情勢を過度に単純化している嫌いがある。
それ以外にも、山尾氏が提案したとされる憲法草案について、「裁判所が法律を無効にでき、すべての公権力を拘束できる」という内容が問題視され、「全力で落選させましょう」と強い反対を表明するポストが見られます。
この草案が、司法の権限を過度に強化し、国の統治構造に影響を与えるとして批判されています。
人権外交の看板倒れ
山尾氏は「人権外交」を重視すると主張し、香港問題などに取り組んできたとしている。しかし、人権を重視する政治家が、自分の行動によって他者(不倫相手の元妻)の人権や尊厳を深刻に傷つけた可能性について、適切に向き合っているとは言い難いでしょう。
6月10日の会見で、不倫相手の元妻の自死について、「事情を存じ上げません」と他人事のように答えた姿勢は、さすがに「人権を重視する政治家」としてはあまりにも無責任です。
自分が関わった問題で苦しんだ人の人権については無関心でありながら、国際的な人権問題については積極的に発言するという姿勢を、偽善的と見ずにどう評価すればいいのでしょうか。
子育て世帯の支援に関して、山尾氏が「ケアマネ推進」など利権団体に資金を配分する政策を提案しているとされ、これが子育て世帯のニーズ(例:年少扶養控除の復活)に合わない「愚策」と批判されています。
ユーザーは、子育て世帯は「口を出す人」ではなく「手を動かす人」を求めていると主張しています。
政策実現能力への疑問
山尾氏の政策論で最も問題なのは、政策実現のための具体的な戦略や手順が不明確なことです。
「憲法改正」「スパイ防止法」「外国人土地取得規制」といった重要政策については、与党との協力が不可欠ですが、山尾氏がこれらの政策実現のためにどのような政治的手腕を発揮できるかは極めて疑問です。
彼女がその道筋を明らかにした事実はないし、過去の政治活動を見ても、「追及」は得意だったが、「実現」については目立った実績もありません。
また、国民民主党という、与党でもなければ、野党共闘にも消極的な中小政党の一議員として、これらの大きな政策課題にどれだけの影響力を行使できるかも疑問です。
政策を掲げることと、それを実現することは全く別の能力が必要ですが、山尾氏の場合、後者の能力にも疑問符が付きます。
有権者への説明責任の軽視
今回に限らず、最も深刻な問題は、山尾氏が有権者に対する説明責任を軽視していることです。
「ガソリーヌ疑惑」については、2016年から一貫して「秘書がやった」「弁護士同士で協議中」として逃げ続けて、8年経った今でも明確な説明をしていません。
2025年の会見でも、「すべて秘書がやったことで、まったく知らなかった」と、相変わらず責任転嫁に終始しています。
政策論以前に、政治家としての基本的な誠実さ、説明責任を果たす姿勢が欠如している人物の政策論に、どれだけの信頼性があるか、と思われてもやむを得ないでしょう。
本当に「政策はいい」のか?
山尾志桜里氏の「政策はいい」という評価は、表面的な政策項目の羅列を見ただけの判断に基づいているように思われます。
一般の国民は、政治に精通しているわけでもないし、弁護士である彼女が、知的な政策通のようなセルフマネージメントを行うのは、ぞうさもないことでしょう。
実際には、政策の一貫性の欠如、実現可能性への疑問、説明責任の軽視など、疑問符は多々つけられるのです。
真に優れた政策とは、一貫した理念に基づき、実現可能な手順が示され、説明責任が果たされているものでなければなりません。
山尾氏の場合、これらの要件を満たしているといえるでしょうか。
私たちは、「政策はいい」という声に惑わされることなく、政治家としての総合的な資質を冷静に判断する必要です。
もちろん、イメージや信用も大切です。
しかし、そこに深刻な問題がある場合、そもそもその政策論自体の価値も大きく損なわれるものです。
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