
品川を過ぎ、川崎へと向かう東海道線や京浜東北線車窓から見える「大森」という街。多くの人々にとって、ここは東京と横浜を結ぶ「ただの通過点」、あるいは「少し地味な駅」という印象に留まっているかもしれません。
しかし、その車窓の向こう側に広がる街並みには、重層的な歴史が驚くほど鮮やかに刻まれています。
強固な地盤を持つ山手の高台と、かつては浅草海苔の香りが漂った低地。この極端な地形のドラマツルギーこそが、この街に多面的な顔を与えてきました。
なぜ、このわずかな圏内に「平和」と「地獄」という正反対の名を持つ場所が共存しているのでしょうか? 本稿では、都市文化紀行家の視点から、大森が秘めている「知的な驚き」に満ちた5つの真実を紐解いていきます。
日本考古学の幕開けは「汽車の窓」から始まった
今日の情報源です。
今日、私たちが歴史の教科書で目にする「大森貝塚」。この日本考古学の発祥の地は、きわめて劇的な、ある種の「直感」によって発見されました。
1877年(明治10年)、アメリカの動物学者エドワード・モースは、横浜から新橋へと向かう列車の車窓を眺めていました。
大森駅を過ぎた頃、切り通しの崖に走る鮮烈な白い帯が彼の目に飛び込みます。
モースは、それが数千年の時を刻む貝塚であることを、学者としての直感で即座に確信したのです。
明治政府の国家プロジェクトであった鉄道。
その車窓から、偶然にして必然的に発見されたという事実は、近代日本の幕開けを象徴するエピソードといえるでしょう。
なお、この発掘場所を巡っては、品川区と大田区の間で長らく論争が続いてきました。
しかし、最終的な決着をつけたのは、モースが土地の所有者に支払った「50円の領収書」の記録でした。この動かぬ証拠により、品川区側の「大森貝塚遺跡庭園」付近が正式な発掘地として特定されるに至ったのです。
「平和島」という美しい名前に隠された、あまりに皮肉な戦痕
現在は、平和島競艇、平和島天然温泉、屋内アスレチック、平和の森公園、平和島公園などの施設がある人工島の平和島。
ここは、なぜ「平和」島と名付けられたのでしょうか。
1939年(昭和14年)、東京港の浚渫土砂の処分場として始まったこの埋立地は、第二次世界大戦の勃発とともにその用途を急変させます。
本土とわずか1本の木橋でつながる孤立した地形は、人間を隔離するのに適しており、連合国軍の「捕虜収容所」として利用されたのです。
さらに歴史は過酷な皮肉を重ねます。終戦直後、この施設は一転して、日本側の戦争責任を問うための場所となりました。東條英機らA級戦犯たちが、巣鴨プリズンへ移送されるまでの約2ヶ月半、この島に収容されていたのです。
「元々は連合国軍の捕虜を収容した施設が、敗戦によって今度は自国の戦犯を収容する施設へと一転する。歴史の巡り合わせとは言え、何とも皮肉な話ではないでしょうか。」(上掲動画より)
「平和」という名は、こうした忌まわしい捕虜収容所の歴史や敗戦の苦い記憶を塗り替えるべく、祈りを込めて名付けられたものでした。ボートレース場にひっそりと佇む平和観音は、今もその記憶を静かに伝えています。
世界的作曲家プロコフィエフが身を寄せた、高台の「文士村」と西欧の社交
大森駅の西側に位置する「山王(さんのう)」エリア。
ここは、海側の低湿地とは対照的な、気品漂う高台です。古くから「八景坂」から見下ろす大森海岸の絶景は人々を魅了し、明治天皇もたびたび足を運んだという「八景園」などの遊園地が賑わいを見せていました。
この地には、かつて欧米の貴族文化をそのまま持ち込んだような「大森射場(しゃじょう)」が存在し、一流の社交場として機能していました。1923年の関東大震災において被害が比較的軽微だったことから、この強固な地盤を求めて多くの文化人や実業家が移住。さらにドイツ人学校の移転に伴い「ジャーマン通り」が形成され、山納は国際的な社交の場としての品格を纏うようになります。
特筆すべきは、1918年(大正7年)の出来事です。ウクライナ生まれの世界的作曲家セルゲイ・プロコフィエフが、米国へ渡る途上の滞在中、山王の「望翠楼(ぼうすいろう)ホテル」に11日間滞在していました。

川端康成や萩原朔太郎らが集った「馬込文士村」のサロン文化と、プロコフィエフのような世界の天才を惹きつける磁場。



山王という高台は、まさに東洋と西洋の知性が交差する特別な丘だったのです。
馬込文士村に居住歴のない芥川龍之介が、大森を舞台とした『魔術』を上梓しましたが、ストーリーが展開された洋館は、望翠楼(ぼうすいろう)ホテルがモデルだったとも言われています。
800人の芸者と、日本初の「特殊慰安施設」があった海辺の変貌
かつての大森は、今では想像もつかないほど海が近い「海岸保養地」でした。浅草海苔の産地として繁栄し、明治期には東京から最も近い海水浴場として人気を博しました。

その賑わいはやがて、大規模な「三業地(花街)」へと発展します。
「大森新地」と呼ばれたエリアには100軒を超える料亭が立ち並び、全盛期には800人もの芸者が在籍していました。

夏目漱石の『虞美人草』や小津安次郎の『早春』において、大森が「男女が忍び合う場所」として描かれているのは、こうした洗練された艶やかな背景があったためです。
しかし、終戦を境に、その洗練は「防波堤」という冷徹な戦略へと転換されます。
1945年8月27日、終戦からわずか12日後。大森海岸の料亭「小町園」は、進駐軍向けの特殊慰安施設(RAA)の第1号となりました。
さらに「柳楽園」や「悟空林」といったかつての格式高い料亭も同様の施設へと変貌させられます。
銀座や新宿ではなく大森が選ばれたのは、神奈川方面から都心へなだれ込んでくる兵士たちを水際で食い止めるための、地理的な「防波堤」としての役割を負わされたからでした。
崖下に口を開ける昭和の遺構「地獄谷」のコントラスト
山納の優雅な邸宅街を歩いていると、突如として線路沿いの崖下に、昭和の空気が凝縮されたような異質な飲屋街が現れます。
通称「地獄谷」と呼ばれる山王小路です。
なかなか這い上がれない
ここは大田区大森の地獄谷 pic.twitter.com/PKpHXksNOh— 塩見なゆ??酒場案内人 (@KanpaiNayu) March 31, 2024
ここは戦後の闇市から続くレトロな区画で、すり鉢状のくぼ地にスナックや居酒屋がひしめき合っています。一度足を踏み入れると、急勾配の階段を登らなければ戻れないため、「酔っ払うと這い上がって来られない」ことからその名がついたと言われています。
頭上を走る京浜東北線の轟音、途端屋根、複雑に絡み合う電線。山納の「光(高貴な邸宅街)」と、崖下の「影(泥臭い酒場街)」。この極端なまでの濃密なコントラストこそ、清濁を併せ呑みながら発展してきた大森という街の、人間臭い深みそのものなのです。
多層的な歴史を飲み込んで、歩み続ける街
現代の大森は、再開発によって近代的なビルが立ち並び、穏やかな時間が流れる街へと変貌を遂げました。
かつて「アサヒビール東京大森工場」があり、あの大ヒット商品「スーパードライ」が産声を上げた場所には、いまや家族連れで賑わうイトーヨーカドーが建っています。

この地はかつて「大森京成百貨店(のちの大森京成)」として親しまれた場所でもありました。なお、ビール工場はその後、神奈川県南足柄へとその拠点を移しています。
大森区と蒲田区が合併して「大田区」となった際、五調の良さと文字の美しさからこの名が選ばれたように、この街は常に過去の過酷な記憶さえも新しい層で覆いながら、しなやかに姿を変えてきました。
明日、大森駅を通り過ぎる時、あなたの目に映る景色はどう変わっているでしょうか?
そんな大森にちょっとでもご関心をもたれたら、上掲の動画をぜひご覧ください。
みなさんの地元について、このような動画は配信されていますか。

大田区の法則 (Linda BOOKS!) – 大田区の法則研究委員会

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