
みなさんは「疑似科学」という言葉をご存知でしょうか。
疑似科学とは、一見科学的な装いをしながら、実は科学的な根拠や検証に乏しい言説や信念、商品などのことです。
ここで注意したいのは、「科学ではないもの=すべて疑似科学」ではない、ということです。例えば、宗教の教えは科学的な検証の対象にはなりませんが、それはあくまで「信仰」の領域であり、最初から「科学です」と主張するものではありません。ですから、本来の宗教は疑似科学とは区別して考えます。
一方、旧オウム真理教の教祖が行ったとされる「空中浮揚」は、神話や伝説としてではなく、あたかも現実の物理現象であるかのように見せていた点で、まさに疑似科学の典型といえるでしょう。
また、1970年代から80年代に大流行した「血液型◯型は〇〇な性格」という血液型性格判断も、その代表格です。
昨今では、SNSの普及により、私たちの健康や生活に直接関わるような疑似科学が広がり、社会的な問題となるケースも増えています。具体的な例を見てみましょう。
1. デトックス・浄化ビジネス
「足裏パッチを貼るだけで毒素が抜ける」「特別な水を飲むと体内が浄化される」といったものです。しかし、人体には肝臓や腎臓といった優れた解毒・排泄システムが元々備わっています。
2. 波動・周波数医療
「全ての物質は固有の波動を放っており、病気は悪い波動のせいだ」「特定の周波数の音で細胞が癒される」といった主張です。しかし、「波動」という概念は科学的に定義が曖昧で、治療効果を実証した信頼できるデータはほぼありません。
3. 新型コロナウイルス関連の誤情報
「5G電波がウイルスを拡散させる」「特定のお茶を飲めば絶対に感染しない」「簡単な方法で感染が判別できる」など、パンデミック中には多くのデマが流れ、混乱を招きました。
4. 「自然派」「オーガニック」神話の過剰な拡大解釈
「すべての化学合成物質は有害である」「天然由来のものは100%安全である」といった極端な考え方です。天然物にも毒は存在し、化学合成された医薬品が多くの命を救っている事実を見落としています。
5. 誇大広告を伴う健康食品・サプリメント
「このサプリ一つでガンが治る」「遺伝子を修復する」など、まるで万能薬のような謳い文句は、ほぼ確実に誇大広告です。
6. 「気」や「プラーナ」を用いた代替療法の過剰な効果主張
「遠隔ヒーリングであらゆる病気が治る」「手をかざすだけでがん細胞が消える」など、物理法則を無視した現実離れした効果を謳うものです。
このように、疑似科学は私たちの身近に数多く存在します。では、学校教育で科学的な考え方を学び、インターネットで様々な情報に触れられる現代において、なぜ多くの人々が疑似科学に引っかかってしまうのでしょうか。
この疑問に答えるかのような、興味深い研究結果が発表されました。
疑似科学を信じやすい人は、「偶然」に意味を見出しやすい?
今日ご紹介する情報源は、科学メディア『ナゾロジー』の記事です。
疑似科学を信じやすい人は「意味のない偶然」を深読みする傾向にある https://t.co/LxpKuvSrlm 科学史に残る「偶然からの大発見」の例もある。重要なのは、「偶然を深読みする」その先にある態度であり、実験と観察で徹底的に検証するか、都合の良い証拠のみを集め、反証を無視するか……
— 赤べコム (@akabecom) November 20, 2025
この記事によれば、スペインのバルセロナ大学の研究で、疑似科学を強く信じる人ほど、本来は無意味な偶然の出来事に、運命や未知の法則といった「意味」を見出しやすい傾向があることが明らかになりました。
この「偶然の深読み」とは、具体的にどのようなことなのでしょうか。
例えば、以下のようなシチュエーションを想像してみてください。
「横断歩道でつまずいて転んだおかげで、目の前を暴走車が通り過ぎた。もし転んでいなければ、轢かれていたかもしれない。これは先日亡くなった父親があの世から守ってくれたのだ」
この考え方には、3つのステップがあります。
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横断歩道でつまずいて転んだ(偶然の出来事A)
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その直後、暴走車が通り過ぎた(偶然の出来事B)
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「AとBは繋がっている。これは亡き父の仕業だ」(意味付け)
科学的な視点、特に確率論から見れば、「1」と「2」は、「確率的には稀だが、起こり得る二つの偶然の重なり」に過ぎません。しかし、私たち人間の脳は、「偶然」や「無意味」を本能的に嫌う性質があります。そのため、関連のない出来事同士に因果関係を見出し、そこに「誰かの意図」や「物語」を作り上げてしまいがちなのです。
この心理的なクセは、「エージェンシー検知(行為主体検知)」 や 「目的論的思考」 などと呼ばれています。簡単に言えば、「何かが起きるには、必ずそれを意図した『誰か』や『何か』がいるはずだ」と無意識に考えてしまう傾向のことです。
「心の真実」と「物理的な真実」を区別できるか
ここで非常に重要なのは、個人の人生において、このような「深読み」や「物語作り」自体は、必ずしも悪いことではないということです。
「父が守ってくれた」という思いは、亡き父への愛着や感謝を深め、自分の命の大切さを再認識するきっかけになるかもしれません。それは「心理的・宗教的な真実」として、その人にとって非常に有益な役割を果たすことがあります。この「心の領域」での解釈を、「非科学的だ」と頭ごなしに否定することは、むしろ人間の豊かな内面性を無視した冷たい態度と言えるでしょう。
問題は、その解釈が 「心の領域」を飛び出して、「物理的な領域」にまで踏み込み、普遍的な法則であるかのように主張されるとき に生じます。
例えば、「つまずいたのは父のメッセージなのだから、つまずいた原因である靴や路面の状態を確認・改善する必要はない」と考えてしまうことです。これは、現実的な原因の追求と対策という「物理の領域」での対処を放棄してしまうことにつながります。
理性的な態度とは、「父が守ってくれたと感じる心の充足感」と、「転んだ原因を探り、再び転ばないようにする現実的な対応」という、異なる次元の二つの「真実」を、区別しながら両立させることなのです。
この研究が指摘する「深読みが問題」というのは、深読みそのものが悪いのではなく、「心のための物語」と「物理世界の法則」を混同してしまうことにこそ、危険が潜んでいるというわけです。
疑似科学の問題は私たちの日常にまで及んでいる
この「混同」は、何もオカルトや健康食品だけの問題ではありません。実は、私たちの身近な議論、例えば政治の場面でも頻繁に起きているように思います。
SNS上での政治議論を見ていると、「右」とか「左」とかいったラベルに基づくポジショントークが溢れています。そこでは、特定の政治家や勢力を「好きか嫌いか」という「心の領域」(感情や信条)が、「その政策が社会にどのような具体的な影響を与えるか」という「物理的な領域」(データや検証可能な結果)の評価まで大きく歪めてしまうことが少なくありません。
政治とは本来、相対的なものです。どんな政策でも、恩恵を受ける人と不利益を被る人が出てくるのが当然です。つまり、多様な意見や影響をすべてひっくるめて「民意」が形成されるものです。しかし、自分の支持する意見だけが絶対的に正しく、異なる意見を認めようとしない態度は、まさに「自分だけの物語」で現実を覆い隠してしまっているのかもしれません。
まとめ:科学的な考え方とは「物差し」である
疑似科学に惑わされないためには、どのような心構えが必要でしょうか。
それは、一見魅力的で心惹かれる主張に出会った時こそ、「科学的な方法論」という冷静な物差しで測ってみることです。
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その主張は検証可能ですか?
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再現性はありますか?
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都合のいい証拠だけを集めていませんか?
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反対の証拠や異なる意見にはきちんと耳を傾けていますか?
この「物差し」を持つことが、情報が溢れる現代社会を生き抜くための、最も現実的な自己防衛手段となるのです。
みなさんも、不思議な偶然や印象的な出来事に遭遇した時、つい意味を見出してしまいたくなることはありませんか? その気持ち自体は自然なものです。しかし、その「物語」が、現実世界で取るべき行動の判断を誤らせていないか、一度立ち止って考えてみるクセをつけてみてはいかがでしょうか。


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